高橋和也(たかはし かずや、1969年5月20日生まれ)は、日本の俳優、歌手、声優。男闘呼組のメンバーで、Rockon Social ClubとMountainmanではボーカルとベースを担当する。


基礎情報
- 生年月日:1969年5月20日
- 出身地:東京都世田谷区
- 血液型:O型
- 活動期間:1984年-
- 職能:俳優、歌手、声優
- 所属事務所:アルファエージェンシー
- 公式サイト:https://www.kazuya.fun/
- ファンクラブ:MICOTO
名義履歴
- 高橋一也:本名・旧芸名
- KAZUYA:「インディアンの丘で」「ひろったハレンチ」「そろそろやっか」の作詞・作曲の名義。
- KAZUYA TAKAHASHI:「YO-YO」の作詞の名義(『ENDLESS TRIP』)。
- ヤズカ:「TOKYOプラスティック少年」の作詞・作曲の名義。
- 高橋HANK和也:カントリーバンドで用いる個人名義。
所属 / 構成
- 男闘呼組:メンバー
- Rockon Social Club:メンバー
- Mountainman:Vocal & Bass
- Midnight Angel:男闘呼組の活動休止の後、前田耕陽らと活動したバンド。名前は、映画『ロックよ、静かに流れよ』の劇中のバンドと同じ。
- Sheriff
- 一本道:遠藤ミチロウとのユニット
- DEAD MAN WALKERS:SHIMEとのバンド。
- NERVOUS CIRCUS:ボーカル、ギター。
- Primitive Kool:ボーカル。
- 高橋HANK和也 & The Driving Cowboys、The Driving Cowboys:ボーカル、アコースティックギター。
1988年の合同公演には、少年御三家の一員として参加した。
経歴
男闘呼組結成まで
たのきんトリオに憧れ、友人とジャニーズ事務所へ履歴書を送った。書類選考には友人だけが合格したが、その友人が行けなくなったオーディションに代わりに出向き、ジャニー喜多川に「ユーは呼んでない」と言われながらも、合格者に交じって毎週レッスンに通った。友人とのバンドで始めたばかりのドラムを特技欄に書いていたことから、ギターを弾く成田昭次を紹介された。1
1984年夏、合宿所で成田と初めて会った。第一印象は「なんなんだ、このヤンキーは!?」という反感だったが、数時間後にはジャニー喜多川に連れられて渋谷のスタジオへ行き、高橋がセックス・ピストルズ、成田がマイケル・シェンカーを演奏してセッションした。同年秋には、ジャニーズ・ジュニアに入って1年後に受けたオーディションに合格し、『東中学3年5組』に出演した。2
1985年1月20日、少年隊のコンサートのバックで初めてステージに立ち、自分たちのコンサートを開くことを目標にした。3男闘呼組の前身「東京」ではドラムを担当し、春にはギターにも憧れてベースの練習を始めた。同じ春、明大付属中野高校に入学した。4当初は都内の自宅から通いながら合宿所にもなじんでいたが、新しい自分を見つけたいという思いから、世田谷の自宅を中心にした生活へ切り替えた。5成田昭次は、ダンスのレッスンで4人の中でいちばん優秀だったのは高橋で、ドラムもベースもダンスも芝居も、何でも器用にこなせると話している。男闘呼組でバック転ができたのは、高橋と前田耕陽だけだったという。6
男闘呼組
1986年、初めてのコンサート『祭 男闘呼組』を成功させ、その成功に勇気づけられた。春からは成田昭次と中心になり、午後9時から翌午前4時まで練習に打ち込んだ。
1987年に光GENJIが先にデビューした時には「トンビに油揚げをかっさらわれたみたいな感じ」を抱いた。一方、正統派のアイドルが登場したことで、男闘呼組をロックバンドとして位置づけるようになった。ジャニー喜多川の「不良なら不良なほどカッコいい」「ジェームズ・ディーンになれ」という言葉に強く影響され、グループの方向を定めた。
1988年公開の映画『ロックよ、静かに流れよ』で戸田務を演じ、男闘呼組の4人で第43回毎日映画コンクールと第10回ヨコハマ映画祭の新人賞を受賞した。78月のレコードデビューを「天にも登る気持ち」と喜び、ファンへの感謝を抱いた。『男闘呼組 ’88 夏コンサート』では、何が起こるか分からない生演奏のスリルに奮い立った。聴き手には性別を問わず、それぞれの受け止め方と自分らしさを大切にしてほしいと考えていた。デビューを知らせて歩いた記者やカメラマンとは、河口湖を泳ぎ、真冬の富士山へ登るような取材も経験した。8富士山では初日の出を見る企画で、強風と厳しい寒さの中、雲海を背景に撮影した。山頂が見える場所までは行ったが、頂上には登らなかった。9
1988年8月24日のデビュー当日、高橋一也(今の高橋和也)はサポートドラマーの小関純匡と阿佐ヶ谷におり、うれしさからタクシーの運転手に「俺、今日デビューしたんだよ!」と伝え、祝福された。10
約3か月ごとのシングル発売と順位への重圧は大きかったが、男闘呼組を青春のすべてと捉えている。11当時はペンライトを好まず、ずれた手拍子には演奏を止めたこともあった。
デビュー時には、遅刻をしない前田耕陽を高橋の独断でリーダーに選んだ。アイドルのバンドへの風当たりに反発し、セックス・ピストルズのような人騒がせでスキャンダラスなあり方を目指した。野次には誰彼構わず応戦しようとして成田になだめられ、『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』の両国国技館では、黙ってやり過ごすほかのメンバーをよそに観客の「帰れ」に怒鳴り返した。バンドブームを検証する生放送の討論番組でも、最上段のひな壇にいたバンドマンと放送直前まで怒鳴り合った。当時の怒りや虚勢には、若さに加え、素面でいる怖さや軽く見られたくない思いがあった。
1989年初めの『男闘呼組 Winter Special ‘89』ではソロの演出にも取り組んだ。自分たちの考えを貫きながら、いつも観客とともにいるためにライブを続けたいと考えていた。
同年春の『男闘呼組 ’89 Spring Concert』では、始めから盛り上がる大都市とは違い、鹿児島の観客が次第に音にのって踊りだす変化を喜んだ。観客と近い小さなライブハウスでの演奏も望んでいた。
同年夏には、1曲だけで「男闘呼組っぽい」と決められることを嫌い、アルバムとシングルで予想を裏切りたいと考えていた。会場の拡大には実力が追いついていないという思いもあり、バラードやMCでは手拍子・かけ声をやめて歌を聴くよう求めた。
8月28日、『男闘呼組 夏・Big Tour ’89』最終日の東京ドーム公演に出演した(映像作品『BIG TOUR ’89 in DOME』)。初めての大観衆への怖さと終演後の放心を経験し、ホールで4年間かけて得た自信を、大きな体育館では「まだまだ」と捉え直した。どの席の観客にもその1日がすべてだと考え、端の席まで満足させることと、再びホールで一から演奏を磨くことを望んだ。
同年後半、バイクの事故で腕をけがし、手術を受けて3週間入院した。テレビの仕事やギターの演奏ができず、いらだつとハーモニカを吹き、初めてじっくり自分を見つめる時間を持った。退院後は腕をつったまま4人でロサンゼルスを旅行し、起床も食事も行き先も自由な、帰りたくないほど楽しい時間を過ごした。自分の基盤が固まった実感から、バンドブームや人気の維持に左右されず活動することを志した。
1990年に成人式を迎え、自分の基本を変えずに生きる意思を持った。春には『男闘呼組 LIVE ’90』と並行してテレビ・ドラマ・舞台のレッスンに取り組んだ。過密な日程には窮屈さを感じ、ツアーへ没頭できる環境を自分たちで作り、観客のために120%の力を出すことを望んだ。

同年秋には、力みや突っ張り、自分が他人より優れているという思い込みを省み、考えを押しつけてきたファンに謝り、もっと優しくなりたいと考えるようになった。年末には、表向きの派手さより内面を鍛えた1年と捉え、地位や名誉を求めるより、芝居でも音楽でも伝える気持ちを持った「表現者」でありたいと考えていた。
年末から約1年ぶりのライブ『LIVE ANGEL』に臨み、名古屋公演で演奏の勘を取り戻した。1991年は、衝動的に突き進む姿勢から、理性的で温かいものを伝える方向へ進もうとした。新しいアルバムの制作を通じて4人の個性を再発見し、自分たちのサウンドが見えてきたという手応えも得た。
1991年春の『I’m Waiting 4 You ’91』では、失敗すればバンドそのものが続かないかもしれないという切迫感と、気持ちが負けていると感じるほどの、普段にはない緊張を抱えた。メンバー同士の衝突が増す一方、それぞれの個性とバンドの趣向が明確になり、人間らしさを失わず、不器用でも信念を貫くことを目指した。
同年夏には写真集の撮影後もロサンゼルスに残り、ダウンタウンの友人宅を拠点に1か月余りを自由に過ごした。未来への不安より、過去も未来も支える今を生きることを重んじるようになった。次作には飾らない素直さを求め、4人の個性を強めて「4つのカラー」の集合体として4倍の力を出すバンドを目指した。
1992年、5枚目のアルバムでは「今」をテーマに、新しさとロックバンドである理由を追求した。メンバーと音を出す喜びを通じ、男闘呼組のよさを再認識した。5月20日・21日の『OTOKOGUMI LIVE PARTY「SOROSOROYAKKA」』では、岡本とともに誕生日を祝われ、友人のバンド(MARMALADE SKY・THE HEADS)や遠藤ミチロウと共演した。誕生日をライブで迎えることに、自分の幸運を感じた。
同年夏の『THE OTOKOGUMI ‘92』では自作曲を中心に歌い、ほどほどにできない性格からライブでは極限まで力を出した。交際への非難の手紙に落ち込んだ時期を経て、コピーバンドをしているという便りを喜ぶなど、ファンとの関係にも変化を感じた。終演後には友人との渡米と、アリゾナで先住民の祭りを見る旅を望んだ。バンドは最良の状態にあると感じ、4人での舞台、ドキュメンタリー風の映画、青木ヶ原でのコンサートも構想していた。
活動末期には、ロックバンドとして認められたい思いから、ライブの雰囲気が悪いと楽屋のテーブルを蹴り倒し、メンバーやスタッフに当たることもあった。ばらばらになり始めたバンドをつなぎ止めたかったが、一緒にいても「背中がいつも寒い」という孤独を抱えた。岡本のADDICT OF THE TRIP MINDSへ同級生のギタリストを紹介したことも、離散のきっかけを作ったように感じていた。『ロクデナシ』の録音時には成田と殴り合いになった。過激に振る舞い、大げんかをすれば昔のように本音で結びつけると思ったが、大切なバンドを失いたくない思いが空回りしたと省みている。

ロックバンドらしいグッズの制作や、サポートメンバー・バックバンドの待遇改善も事務所へ要求した。自身も解雇を予感する中、1993年の『the Slab Boys』の稽古中、ほかの3人の後で一人だけ会議室へ呼ばれ、千秋楽での解雇を告げられた。自分たちで作り上げたバンド像どおりに生きようとした結果であり、「でも、それが俺たちのイメージじゃなかったの?」という思いを抱いた。
同年夏の全国ツアー『THE OTOKOGUMI ‘93』は、全公演が中止になった。
周囲から異端視され互いだけを頼って結束した一方、映画俳優とソロミュージシャンとして自分の世界を作る自立心も強まった。個人の望みが必ずしもグループによい結果をもたらさない難しさも感じていた。
活動休止のあと
1993年、男闘呼組の活動休止発表の2日後に、演技の修業のため渡米した。24歳で事務所を離れ、大切なものを突然失った不安と、自力で生きようとする意欲が同時にあった。『the Slab Boys』を演出したロバート・アラン・アッカーマンの誘いを受け、語学と映画製作を学びながら、撮影補助、子役のオーディションの相手役、映画の端役などを経験した。世界的な俳優が無名の自分を迎えてくれた経験は、自信と勇気につながった。
解雇後に報じられた薬物疑惑は否定した。英語は日本語を使わず暮らすうちに、3か月ほどで聞き取れるようになり、米国で俳優として活動することを本気で目指した。渡米4か月目に恋人の妊娠を知り、一時帰国して入籍した。1994年初めにはアッカーマンの映画に出演するため再渡米し、通算ほぼ1年間を米国で過ごした。映画にならなかった脚本や企画も多く、世界で活動する道を模索した。
帰国後はフリーで活動し、栗山民也の誘いで、1994年4月の『NEVER SAY DREAM』に出演した。同年の映画『激安王 通天の角』などを経て、翌年の『KAMIKAZE TAXI』で達男を演じた。同作を紹介した万代との出会いをきっかけに、アルファエージェンシーに所属した。
米国滞在中も自作曲を書きため、帰国後はKazuya AND ROCK FOLKを結成して新宿でコンサートを開いた。歌と芝居の両方を続けたいと万代に伝え、その音楽活動も受け入れられた。俳優の仕事が数年間途切れず続き、先の日程が定まらない時期には、新宿の父の店(マローネ)で仕事の合間に演奏を続けた。周囲の対応の変化に傷つきながらも、自分の足で歩めるようになった時期と捉えている。
成田とはいったん疎遠になったが、マローネで再会し、即興のセッションをするようになった。1997年には成田らとSheriffを結成した。保安官を意味するバンド名は高橋が考えた。前田耕陽らとのMidnight Angelでも活動した。
1996年には所属後初の連続ドラマ『ひとり暮らし』、1997〜1998年には主演ドラマ『寺子屋ゆめ指南』に出演した。2002年の映画『ハッシュ!』は、自身の代表作の一つと考えている。2014年公開の『そこのみにて光輝く』では中島を演じ、高崎映画祭最優秀助演男優賞を受賞した。
2016年1月22日、『徹子の部屋』に単独で出演した。
再始動と Rockon Social Club
男闘呼組の再始動から解散までと、その後の Rockon Social Club との関係の流れは、男闘呼組の再始動に詳しい。
2020年8月4日、名古屋で男闘呼組の4人がセッションした。高橋は、自分たちを最高のバンドと信じてきたことが虚勢や幻想にすぎず、事務所に作られたアイドルバンドだったらどうしようという怖さを抱えていた。演奏を終えると「俺たちが信じたものは間違ってなかった」と確信し、10年以上ぶりに会った成田昭次も変わらないと感じた。成田は、地元なのにスタジオも知らなかった自分に代わって、高橋が予約を入れてくれたと話している。親や社会人として積み重ねた現実的な見方を壊すほどの再会は、人生の二つ目の大きな転機となった。
再始動には、成田の名古屋での生活や母親、日程、事務所の了承を案じた。セッション後は成田の翌日が休みの日に電話をするようになり、生活を築くまでの経緯を聞くほど、「何もかもなげうってっていうのは無茶だよな」と考えた。同年9月の丸ビルでの話し合いは、木更津でドラマの夜間撮影中だったため欠席したが、電話で成田の前向きな変化を感じた。一度は冷静になるよう促した後、最終的には本人の決断に賛同した。
1992年の演奏のテープを聴き、再始動へ向けた墓参りも経て、自分たちの音への自信を確かなものにした。50代になり、体や困難の乗り越え方を知ったことも再始動の支えと考える。復活の準備を動かした岡本の行動力に加え、演奏と人物、曲を評価して支えた興行主やプロデューサーの存在も大きいと考えている。
2020年、成田が約10年ぶりにステージへ戻ったLittle Black Dressの公演(『参ったな2020』)は、仕事で11月3日には行けず、12月の追加公演を観覧した。
2022年にはソロアルバム『MOUNTAIN MAN』を発売した。Mountainmanでもボーカルとベースを担当した。4月14日の『TOKYO MUSIC SHOW』では、新型コロナウイルス感染で欠席したLittle Black Dressに代わり、同じTOKYO RECORDSに所属する成田昭次が急きょMCを務め、高橋はゲストとして出演した。成田との32年ぶりのラジオ共演となり、音楽を続ける喜びと、再び4人でステージに立つ意欲を分かち合った。5月にはソロライブを開き、6月15日には、成田のソロツアー『犬も歩けば棒に当たる』の Billboard Live TOKYO の追加公演(1stか2nd)を前田と観覧して、「パズル」を歌う成田を見守った。
7月16日、男闘呼組は『音楽の日』で29年ぶりに活動を再開した。9月20日には、成田・寺岡呼人・青山英樹の成田商事(後のNARITA THOMAS SIMPSON)の「入社式」の最後の公演(Billboard Live TOKYO の 2nd)に、スペシャルゲストで出た。アンコールで「エヴリバディ、ロケンロー!」と叫んで登場し、「インディアンの丘で」を歌い、最後に成田商事と「パズル」を演奏した。成田が高橋にもたれてギターを弾く場面もあった。成田は、成田商事のライブに高橋、次に岡本健一、そして前田耕陽がゲストで来たと振り返っている(岡本が出たのは、前の日の19日)。
10月15日、『男闘呼組 1988』の初日公演で再びステージに立った。30年近くかなわないと思っていた夢の実現に、それまでにない興奮を覚えた。以前の男闘呼組ではなくなる怖さもあったが、ステージに立つ限り4人は昔のままで、そこは誰にも触れられない「神聖な場所」だと感じた。観客を失望させず、プロとして質を下げないという自負と、4人への信頼が演奏を支えた。
12月の大阪城ホールの公演では、名古屋と大阪の間の休みの日になんばグランド花月で見たザ・ぼんちの漫才に刺激を受けて、MC でハイテンションに「丸くなるなよ、星になれ」と言い、星の形の身振りをして客席に受けた。成田昭次は、その動きの鋭さを「神が降りてきたみたいな感じのMC」と表している。名古屋の公演の夜ごろには、前田耕陽と、海原やすよ ともこの大阪の番組にゲストで出て、1時間まるごと男闘呼組の番組になった。
同年末には、男闘呼組として『輝く!日本レコード大賞』の特別賞を受賞した。1988年の最優秀新人賞を昨日のことのように覚え、これほど誇らしいことはなかったという思いと、翌年を観客とともに最高の年にしたいという期待を持った。1988年の受賞時は、取れるとは思っておらず、細川たかしの発表にメンバーと抱き合って喜んだ。同年の新人賞にはBUCK-TICKも選ばれた。2022年の大晦日には、年越しのフェス『50th NEW YEAR ROCK FESTIVAL 2022-2023』(東京ガーデンシアター)に初めて出た。男闘呼組が初めて復活のライブを開いた会場だが、男闘呼組のライブの時とは雰囲気が全然違ったという。出演は年明けの1月1日の枠で、原田喧太、満園庄太郎、満園英二のKATAMALIと共演した。原田の提案が、この共演につながった。
2023年1月9日には、岡本健一の番組『眠りにつく前に』に電話出演した。前年の再始動公演を踏まえ、メンバーの演奏したい曲とファンの聴きたい曲を含む集大成を目指し、全国ツアーで新曲を披露することを望んだ。新成人には、他人への優しさを大切にしてほしいと呼びかけた。
同月、男闘呼組の4人と寺岡・青山によるRockon Social Clubが正式に発表された。かつての活動休止をバンドの共同作業における失敗と捉えていた高橋は、6人での活動を自然に受け入れ、男闘呼組の終わりの先にも希望と未来を見いだした。54歳でこれほど多くのライブを続けることは想像していなかったが、元気と経験を持つ年齢を喜び、何でもできると感じるようになった。
8月の『オールナイトニッポンGOLD』には、いつか出たいと考えていた番組で4人とリスナーが賑やかに過ごせることを喜び、眠気に備えてドリンク剤を用意しようと冗談を添えた。
8月25日の日本武道館公演では満員の客席に感謝し、ともに燃え尽きようと呼びかけた。翌26日、日比谷野外大音楽堂での男闘呼組の最終公演に出演し、1988年の『男闘呼組 ’88 夏コンサート』以来35年ぶりの帰還を喜び、「最後は明るく終わります!」と客席へ呼びかけ、投げキスを送った。一度解散すれば男闘呼組として活動できなくなる悲しさと、ファンの立場では何のための再集結だったのかという疑問は、再始動の時から抱き続けていた。武道館の公演の緊張感に比べて、日比谷野音は「やっぱり解放されたよね」と話している。
ツアーの後に成田昭次が涙を流していた時は、それを「男闘呼組ロス」と呼んだ。高橋自身も、ツアーがひととき終わって休みに入った時、もぬけの殻のようになり、急に涙が出てきて、「これが男闘呼組ロスか」と思ったという。ファンからよく聞いていた「ロス」が、自分にも来たと話し、この年は「たくさん本当に」泣いたと振り返っている。
10月4日の『BREAK UP SHOW 2023』では、劇中映像『Reseed〜成田商事倒産の危機〜』にRockon Social Clubのメンバーと出演した。せりふを覚える時間もない15時間ほどの撮影で、高橋は「一発勝負で、みんなでもう勢いで作れみたいなね。すごい楽しい」と話した。岡本健一は高橋の役への入り方に驚き、青山英樹も「スイッチの入り方がやばいですよ」と言った。4人がそろって演技をするのは『オトコだろッ!』以来で、高橋は「俺たちみんなでドラマやったから、本当に嬉しかったね」と話している。前田耕陽が脚本を書くのは知っていたが、メンバー全員が出るドラマを前田が書くのは画期的な企画だったという。自分の役は「怪しいおっちゃん」だった(前田の話)。 2024年と2025年にはNARITA THOMAS SIMPSONの公演にもゲスト出演した。
12月の『Rockon Social Club Tour 2023 Don’t Worry Baby』では、舞台の本番と重なり、東京の千秋楽を終えて合流してからツアーまで3日しかなかった。新しい曲の4曲は暗譜できず、初めて譜面台を使ったが、いつもは時間をかけて曲を全部覚え込む高橋が、どうなるかとドキドキしていたライブは、うまくいったという。
12月31日には、Rockon Social Club として第74回『NHK紅白歌合戦』に出て、MISIAと「傷だらけの王者」を演奏した。男闘呼組として出た1989年から34年ぶりで、本番では成田昭次と舞台袖で出遅れた。番組の後に乾杯してから、年越しのフェス『50+1 NEW YEAR ROCK FESTIVAL 2023-2024』(渋谷ストリームホール。出演者の名前は MOUNTAIN MAN)に向かい、夜中の2時の出番まで、楽屋で振る舞われる樽酒を飲まずに我慢した。
2024年3月19日には、ブルーノート東京の『Super Live 2024』(1st・2nd)に出た。1969年4月から1970年3月に生まれた同学年の6人(ヒダノ修一、真矢、原田喧太、高橋、堀江博久、大黒摩季)による一夜限りのセッションで、Mountainman で一緒にやっている原田に声をかけられた。
2024年8月12日の『Rockon Social ClubのオールナイトニッポンGOLD』では、成田昭次と一緒に進行役を務めた。成田は、周りからの評判がよかったと話している(2024年)。
2025年1月には、Mountainman のワンマンで、初めて歌舞伎町の新宿LOFTに出た。ずっと立ちたかったライブハウスで、この先もう一度立つかどうかも分からなかったので、記念に音源を残したいと録音し、いい音源だったので、2枚組のアナログ盤『Luv LIVE』にした。LOFT に立てたのは、全国のライブハウスに幅広いつながりを持ち、何度も LOFT に出ていた原田喧太のおかげだと話している。この公演は『MOUNTAIN MAN Great Love Tour』の一公演で、高橋はボーカルとベースを担当した。
2026年の『Rockon Social Club Tour 2026 WARRIORS』では、9月3日・4日の開幕公演で「Midnight Train」を紹介し、平和の戦士として歌う思いを客席へ伝えた。
出演
ドラマ
ライブ
舞台
現在の音楽活動
男闘呼組の再結成
1993年の活動休止以降、27年間、4人のメンバーが揃うことはなかった。2020年8月、岡本健一からの「お別れ会」への招待をきっかけに、成田昭次がメンバーとの再交流に応じることになった。この時期、高橋は成田昭次に愛知県の方言を教えてもらうためにメールで連絡を取り始めていた。岡本からの提案「みんなでごはんくらいはいつでも食べれる。それより、スタジオに入ろうよ」により、4人がスタジオに集結することになった。
2022年7月16日、4人は約27年ぶりにTBS「音楽の日」で「TIME ZONE」「DAYBREAK」「パズル」の3曲を演奏し、男闘呼組の復活を公式に発表した。2022年から2023年8月までの期間限定で、男闘呼組の再活動が行われることが決定された。この再始動には、各メンバーが異なる事務所に所属し、それぞれに活動があるという複雑な状況を乗り越える必要があったが、優秀なプロデューサーとの協力により実現した。
メンバー同士の関係性について、成田昭次は2026年1月のインタビューで「4人で話すとき、敬語になる時が増えた」「当時は苗字で呼び合っていたが、今は下の名前で呼ぶようになった」と述べ、「仲は良かったけれど、喧嘩もたくさんあった。殴り合ったこともある」と当時を回想。一方で「今が1番仲が良いんじゃないですかね」と現在の関係性を評価している。

MOUNTAIN MAN
2022年、高橋は新たなソロアルバム『MOUNTAIN MAN』の制作に着手。当初は男闘呼組の新曲として楽曲制作に着手したが、最終的にはソロアルバムとして制作され、男闘呼組メンバーのほか、うじきつよしなど多数のゲストミュージシャンが参加した。
このアルバムの制作と発表に伴い、高橋は2022年5月にSOLO TOUR「MOUNTAIN MAN」を開催。そのツアーの成功を受けて、同年5月20日(高橋の誕生日)、アルバムに参加した高橋和也(ボーカル、ベース)、原田喧太(ギター、ボーカル)、平山ヒラポン牧伸(ドラムス、ボーカル)の3名でロックトリオ「Mountainman」を正式に結成した。
高橋と原田喧太は10代の頃から親交があり、平山ヒラポン牧伸は男闘呼組のオーディションで高橋に採用された経歴を持つ。バンドの音楽性は、ハードロックを基調としながらブルースやR&Bの要素を取り入れたものであり、3人がメインボーカルをそれぞれ担当する特徴を持つ。

Rockon Social Club
男闘呼組の期間限定活動の中から、新たなバンド「Rockon Social Club」(略称:RSC)が生まれた。2023年1月26日、ラジオ番組『TOKYO MUSIC SHOW』で成田昭次と岡本健一によって正式なバンド名が初めて公表された。
Rockon Social Clubは、男闘呼組の4メンバー(成田昭次、高橋和也、岡本健一、前田耕陽)に、プロデューサーの寺岡呼人とドラマーの青山英樹を加えた6人で構成される。男闘呼組の活動終了後、その音楽的遺伝子を受け継ぎながら新たな表現を追求する後継プロジェクトとしての位置付けを持つ。楽曲は主にプロデューサー寺岡呼人によって手掛けられ、男闘呼組時代からの特徴であるメンバー全員がボーカルをとるマルチボーカルスタイルを継承している。
高橋は、このプロジェクトの中で引き続きボーカルとベースを担当している。RSCは2023年以降、精力的にライブツアーやメディア出演を行い、NHK紅白歌合戦(第74回、2023年12月31日、MISIA枠での共演)、NHK「SONGS」など主要な音楽番組に出演している。

人物・エピソード
俳優活動の初期において、舞台『NEVER SAY DREAM』の稽古中にトラブルが起きたこと、また公演準備と私生活が重なる状況の中で初日を迎えたことを回想している。
『KAMIKAZE TAXI』出演は、当時の関係者(所属先に関わる人物)から脚本を渡されたことが契機だったと述べている。
『寺子屋ゆめ指南』主演は、制作側の事情変更を受けて決まった経緯を本人が語っている。
作品選びについては、近年は脚本全体を読み、役の魅力(人物造形や登場のさせ方等)を重視して判断するという趣旨の発言をしている。
俳優と音楽の両立について、俳優業の経験が楽曲の着想につながることや、逆に舞台の中で音楽的要素を担う役が来る場合があることを述べている。
一方で、音楽活動を自主的に進める際には、制作費や会場手配、集客などを含めた運営面の負荷を実感したとも語っている。
1990年代の舞台経験として『エンジェルス・イン・アメリカ』を挙げ、当時の社会状況や題材(人権をめぐる問題意識等)を踏まえた作品であったという認識を示している。
私生活
高橋は6人の子どもを持つ父親である。長男の名前「耕太郎」は、男闘呼組メンバーの前田耕陽から一字をもらって命名された。長男の耕太郎と三男の海斗は、音楽ユニット「Tokyo Plastic Boy」として音楽活動を行っており、2022年の男闘呼組復活コンサート「男闘呼組1988」ではオープニングアクトを務め、世代を超えた音楽的継承を実現した。
高橋の父である三千男氏が経営する新宿のライブハウス兼バー「マローネ」は、高橋の音楽活動の中心となっており、毎年12月31日のカウントダウンライブはこの店での演奏が恒例となっている。
ラジオ出演
脚注
- 初対面とセッションの同じ回想を紹介した記事:Yahoo!ニュース「成田昭次が仲間たちと実現させた男闘呼組復活」。合宿所での初対面と、その後のスタジオでのセッションは本文で区別する。 ↩︎
- 『MYOJO』1988年6月号 244〜247ページ「CHAPTER II HAS JUST BEGUN 結成3年、現在進行形スーパー戦闘史」 — 1984年からの仕事の振り返り(オーディション、初めてのステージ、練習、初めての主演、田原俊彦の言葉)と、公開後の高橋の話。 ↩︎
- 『MYOJO』1988年6月号 244〜247ページ「CHAPTER II HAS JUST BEGUN 結成3年、現在進行形スーパー戦闘史」 — 1984年からの仕事の振り返り(オーディション、初めてのステージ、練習、初めての主演、田原俊彦の言葉)と、公開後の高橋の話。 ↩︎
- 『MYOJO』1985年6月号 117ページ「新番組『サーティーンボーイ』」 — 岡本健一の話(1985年春の高校入学、『毎度おさわがせします』の冬のロケ)。記事の表記は「高橋(一也)」。 ↩︎
- 『MYOJO』1985年8月号「目も音も輝き始めたぞ。」(87ページほか) — 「毎度おさわがせボーイ」の紹介、合宿所、ドラムからベースへ。 ↩︎
- 「音楽的に試行錯誤を繰り返した」成田昭次が明かす当時の男闘呼組、性格がバラバラの「4人だから面白かった」(双葉社THE CHANGE、2025年12月16日。リレー連載の第11回) — 成田昭次の、高橋和也のダンスのレッスンと器用さ、バック転の話。 ↩︎
- 『ロックよ、静かに流れよ』(映画のパンフレット、東宝出版事業室、1988年2月13日発行)22〜23ページのキャスト — 役名の「戸田務」。 ↩︎
- 2023年5月13日放送の『ROCKON TIMES』 ↩︎
- 2025年9月6日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
- 2025年8月30日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
- 婦人公論「男闘呼組・復活の舞台裏とラストツアーへの思い」 ↩︎
