アーティスト:男闘呼組
引用元: ペーター・ハントケ作の戯曲「KASPAR(カスパー)」Scene 55より(龍田八百訳・劇書房、1984年)
本作は従来のロックサウンドを完全に離脱した実験的な音響作品である。ジャンルとしてはポエトリーリーディングとミュージック・コンクレートの融合といえる構成で、明確なビートやメロディラインは存在しない。楽器構成においては、シンセサイザーと打楽器による緊張感あるサウンドが基調を成し、不穏なドローンと金属的な不協和音により全体の不安な雰囲気を形成している。
環境音とサンプリングされた音の断片がコラージュ的に重ね合わされ、立体音響技術により左右のチャンネルを移動する音響設計は、聴き手を混沌とした心理状態へと誘導する。全体的にインダストリアルで冷たい質感を持ち、静寂と轟音が唐突に入れ替わる構成により、常に緊張感が維持されている。
語りの構造と演劇的要素
楽曲の中心となるのは高橋和也によるモノローグであり、その抑制された語りに他のメンバーも声を重ねていく構成が採られている。冒頭から小さな声で反復される〈善でありたい…〉という囁きが聴覚の奥底に浸透し、作品全体の基調となっている。
この楽曲の演劇的アプローチは、1992年に高橋が出演した蜷川幸雄演出の舞台『1992・待つ』に着想を得ており、現実と虚構、個と集団の揺らぎを詩的に描いた演出の系譜と呼応している。〈人間なら〜〜〉という集団的なスローガンの反復は、まさにこうした演劇的手法の音楽への応用といえる。
原作との関係性と言語的実験
この作品には、ペーター・ハントケの戯曲『Kaspar』(1967年初演)からの引用が数多く含まれている。〈この世に誕生して ぼくは何をつかんだのだろう〉〈世界は神経を苛立たせるだけだった〉など、原作の孤立と不安の表現が語りのリズムと視点を保ったまま再構成されている。
特に印象的なのは「善でありたい」というフレーズの扱いである。この語は原作にも龍田訳にも存在しない完全なオリジナル創出だが、原作の「I want to be a person like somebody else was once. ( 昔だれかがそうだったような人間になりたい )」という台詞と構造的に響き合っている。善であろうとする意志が内発的な願望なのか、外部から刷り込まれた模倣命令なのか、その不確かさが作品の主題に深い陰影を与えている。
音響表現の意義
この作品における音響と語りの関係性は極めて緻密に設計されている。語りが「痛み」に言及する部分では鋭いノイズが挿入されるなど、歌詞の内容と音響効果が密接にリンクしており、戯曲の持つ「言語による人間形成の暴力性」というテーマを聴覚的に体現している。
終盤では〈人間なら 自由に生きよう〉〈人間なら 愛されよう〉といった言葉が、男闘呼組の全メンバーの声によって次々に発せられ、文字通りの「叫び」として空間を満たす。これは原作のクライマックス(Scene 55)において、複数のカスパーたちが機械的に言葉を反復し続けるシーンと強く重なり合う。意味なき反復の中で、「人間であること」とは何かという問いがむしろ鮮烈に浮かび上がっている。
ロックバンドの枠組みを大きく逸脱したこの作品は、原作戯曲の難解なテーマに音響芸術として挑んだ野心的な試みといえる。音楽・演劇・詩の境界を横断し、「言語という暴力」を日本語という言語空間に移植して表現した実験的作品として、独特の価値を持っている。
従来の楽曲としての聴きやすさは皆無である一方で、言語と意識の関係性について深い洞察を提示する芸術作品として位置づけられる。「善でありたい」という一言に込められた願望と強制、個と制度、言葉と沈黙のあわいが、聴き手の内側を静かに、しかし深く揺さぶる力を確実に持っている。これは詩としての音楽であり、演劇としての音であり、そして「言葉とは何か」を突き詰める現代的な問いそのものである。
歌詞と引用部分の参照
(善でありたい…)
(善でありたい…)
この世に 誕生して
ぼくは 何をつかんだのだろう1
はっきりしたものが欲しくても すべては
近くにありながら 果てしなく遠かった
物は ぼくを脅かし
世界は 神経を苛立たせるだけだった
ぼくは 自分にも 誰かにも
なりたくなかった2
酔払いのように 意識はなく
人間なら 何かの役に立つはずなのに
ぼくは まったくの役立たずだった
景色は 嫌悪を生み
音には だまされるだけだった
新しいものに出会うたび
いそいで吸収して
激しく吐き続けた3
(善でありたい…)
(善でありたい…)
ぼくを社会に 誕生させたのは
時間ではない 痛みだった
それまで 一体だと思っていた ぼくと物とが
転んだ瞬間に 引き裂かれたあの痛み
別の存在を知ったぼくは
幼児語からも 追放された
だから
ぼくを
混沌の世界から
卒業させたのは4
痛みだ5
(みんなの言葉)
(みんなの言葉)
人間なら
自由に生きよう6
(善でありたい…)
(善でありたい…)
人間なら
主人になろう7
管理されよう
成長しよう8
望みをしよう9
人生を生きよう10
人間なら
愛されよう11
人間なら
愛されよう
(善でありたい…)
- 『カスパー』・p86(原文:「この世に 誕生して ずいぶんたつのに ぼくは 何をつかんだのだろう」) ↩︎
- 『カスパー』・p87(1行目〜6行目) ↩︎
- 『カスパー』・p87(10行目〜17行目) ↩︎
- 『カスパー』・p90(7行目カスパーのセリフ始め〜) ↩︎
- 『カスパー』・p91(1行目カスパーのセリフ終わり) ↩︎
- 『カスパー』・p92 ↩︎
- 『カスパー』・p93(原文:「人間なら 自分の主人になろう」) ↩︎
- 『カスパー』・p94(原文:「人間なら 自分を成長させよう」) ↩︎
- 『カスパー』・p92(原文:「自分の望みを知ろう」) ↩︎
- 『カスパー』・p92(原文:「自分の人生を生きよう」) ↩︎
- 『カスパー』・p97(原文:「酒場でけんかをするなかれ 愛されよう 愛されよう」) ↩︎