成田昭次の兄– tag –

成田健一

成田健一は、成田昭次の1歳上の兄。成田より先にジャニーズのジュニアになり、成田はその「背中を見て」芸能界に入った。ロカビリーやフィフティーズが好きで、地元でバンドを組み、ギターを弾いていた。成田がギターを本格的に弾き始めたのは、兄の影響が大きかった。2009年11月、自ら命を絶った。兄が遺したオレンジのグレッチ(Gretsch 6120)を、成田は音楽を再び始めた時から使っている。

基本情報

  • 成田昭次との関係:1歳上の兄
  • 呼び方:成田は「兄貴」と呼ぶ
  • ジャニーズのジュニア:成田より先に所属していた
  • 亡くなった時:2009年11月10日の夜(成田が駅で見送った日の夜)

成田昭次との関わり

子どもの頃

昭次が、父のスポーツ好きと、兄弟で野球やサッカーをしたことを回想。

兄は、性格から何から成田と「真逆」だった。模範的な生徒で、スポーツも勉強もでき、社交的でクラスの中心的な人気者だった。父の影響で兄弟が習った多くのスポーツでは、何をやってもすぐにレギュラーになり、野球ではキャプテンで4番、サッカーでは点取り屋でキャプテンを務めた。リコーダーのテストでも、数回の練習で吹けるようになった。成田にとって兄は、憧れと嫉妬を同時に抱かせる存在だった。泣き虫だった成田は、兄に茶化されてはよく泣いた。母は、成田がムキになるので、兄は余計に面白かったのだろうと話す。成田が中学2年、兄が中学3年のころの兄は、とても怖かった。

兄はバレンタインに、毎年たくさんのチョコレートを持ち帰った。成田は「兄貴がすごいモテてた」と振り返り、兄のチョコレートに付いていた手紙を、こっそり読んでしまったこともあるという。兄が持ち帰ったラブレターをこっそり読んだ時には、「私にとって、あなたは太陽みたいな人です」という言葉に驚いた。いつも手ぶらの成田を見かねて、母が毎年チョコレートを買ってくれた。

成田は、父の暴力から逃げる時に手を引いてくれたのも、ピンチに救いの手を差し伸べてくれたのも、いつも兄だったと振り返る。

お盆には親戚で集まって墓参りをし、みんなで泊まった。いとこは成田と兄のほかは全員女の子だったと振り返っている。

成田が上京する前の名古屋のころ、兄や先輩たちの間でバイクがはやり、みんな400cc のバイクに乗っていた。

1970年の大阪万博では、成田と兄がお揃いの服を着て、太陽の塔とともに写真に写った。成田自身に現地での記憶はなく、後から写真を見て、兄と訪れたことを振り返っている。

兄はアイドル雑誌が好きで、弟より少しおませだった。成田は兄から『平凡』『明星』の付録のシールをもらい、タンスに隙間なく、パズルのように貼っていた。

成田が小学校4、5年生ぐらいのころ、父が初めてテレビにつないで遊ぶゲームを買ってきた時は、兄弟で大喜びした。左右の棒で点の球を打ち合う、テニスのようなゲームだった。

ジャニーズへの入所

兄は、中学に入る直前の春休みに芸能界に入り、日劇(日本劇場)でのたのきんトリオのコンサートに、バックとして出た。成田は、誰かが履歴書を送って連絡が来たのだろうと考えているが、いきさつは今では確かめられないという。その後は、名古屋の近くのコンサートを中心に、バックで出た。成田が小学校を卒業した直後の春休み(1981年)、兄が近藤真彦の愛知厚生年金会館のコンサートに出ることになった。「一緒に行きたい!」と頼む成田を、兄は初めは渋ったが、連れて行った。成田はこのコンサートで、ジャニー喜多川に声をかけられ、初めてステージに立った。成田は「兄の背中を見て」芸能界に飛び込んだ。

1985年、1歳上の兄(当時、東京で美容師)がジュニアに所属していたことを、成田が男闘呼組のリーダー格とされる理由の1つに挙げた。

兄のバンドとギター

兄はブライアン・セッツァーを好み、成田にギタリストの逸話を教えていた。成田は兄から、スティーヴィー・レイ・ヴォーンと共演したセッツァーがそのギターを弾かせてもらい、弦が太く、チョーキングに苦労したという話を聞いた。兄はヴォーンも好きで、成田がヴォーンを耳にする機会が増えたのは、そのためでもあったという。岡本健一は、ロックバンドになろうとは思っていなかったデビューの前のころ、成田は兄の影響で、いろいろなバンドを知っていたと話し、成田は、兄がブライアン・セッツァーを好きだったと答えている。成田がエリック・クラプトンに出会ったのも、兄が好きだったことからで、兄は本当にクラプトンが好きだったという。

兄は中学に入って音楽に出会い、ギターを始めた。興味を持ったものにとことんはまる父の気質を、兄は色濃く継いでいた。同じ子ども部屋で暮らす成田にも、ギターが身近になった。兄が好きになったのはロカビリーで、ストレイ・キャッツに憧れた。ハードロック・ヘヴィメタルに惹かれた成田とは、好きな音楽が違った。成田は、兄を通じてロカビリーを初めて聴き、初めはよく分からなくても、後からじわじわよさが分かることもあると振り返っている。成田によると、兄はセミアコのギターを買って練習したかと思えば、ウッドベースも始めた。外見も金髪のリーゼントで、ブライアン・セッツァーのようだった。兄が憧れたストレイ・キャッツのギタリストのブライアン・セッツァーは、両腕だけでなく上半身にびっしりタトゥーを入れていた。成田がギターを本格的に弾き始めたのは兄の影響が大きく、押し入れにしまってあった兄の白いセミアコのギターを「勝手に」弾いたのが、ギタリストとしての第一歩だった。成田の記憶では、白地に金色の縁取りがある、グレッチのホワイトファルコンに似たギターで、アイバニーズのものだったかもしれないという。成田は、兄が始めたことを1つ下の弟がすぐ真似するのは、兄には面白くなかったはずだと考え(「『俺が最初に見つけたものなのに』って」)、ギターに惹かれるほど、負い目のようなものも感じていた。

何度かコンサートに出ると、事務所からの連絡が途絶えた。兄は熱が冷め、友人たちとの音楽活動にのめり込み、洋楽にどっぷりはまった。たまにコンサートに呼ばれても兄は行かなくなり、成田は、兄が違う分野のアイドルを見つけたのだろうと話している。

男闘呼組の初めてのツアー『祭 男闘呼組』の名古屋公演の時、兄の健一(18歳)がホテルを訪ねてきた。元ジュニアの兄が「おまえ、ギターがうまくなったなァ」とほめると、成田は「プロだからね、プロ」と返した。兄はそのころ、地元で60年代風のバンドを作り、セミプロとして活動していた。ロカビリーやフィフティーズが好きだった。

デビュー直後、男闘呼組に不良っぽいイメージが強かったころ、兄は成田に「おまえ、小さい時はけっこうひょうきんで面白いやつだったのにさあ。なんでこんなになっちゃったんだよ」と言った。成田はその時、冷やかされたと思ったが、今は「あれは『あんまムリすんなよ』って兄貴なりのエールだったんですよね」と振り返る。男闘呼組のころの兄弟は、会えば必ずといっていいほど喧嘩になった。兄は「あのバンドを聴いたか?」「あのギタリスト、めちゃくちゃ上手いぞ」と教えてくれたが、成田には、そのどれもが「おまえがやってるギターは本物じゃない」と言われているようで、苛立った。成田は、男闘呼組が本物のロックバンドだと証明しようとあれほどムキになったのは、世間でもほかの誰かでもなく、たったひとりの兄に認められたかったからだと振り返る。

男闘呼組の活動休止の後は、兄弟の仲は比較的よくなった。兄は東京の成田を訪ね、2人で何度もビンテージギターを見に行った。成田が兄を家に招いて手料理をふるまった時、兄は成田の作ったおでんを頬張りながら、「美味い、美味い」と何度も言った。

保釈後の再会と別れ

2009年9月に成田が逮捕された時、兄は、職場の母に電話をかけ、「母さん、絶対に動揺するなよ」と言ってから、「昭次が逮捕された」と知らせた。

逮捕から3週間後に保釈された成田が、名古屋の実家に戻ると、兄が玄関で出迎えた。兄弟は、数年前に東京で会った時、ささいな揉めごとで喧嘩別れして以来、音信不通だった。成田は「𠮟責されるか、罵られるか……。できればいっそぶん殴ってほしかった。どうしようもない弟を」と思っていたが、兄は「大変だったな」とだけ言って成田を抱きしめた。成田が「兄貴、俺、二度とギターを弾かない」と伝えると、兄は「好きなんだろ、ギター」と返し、「俺がギターを弾くから、ベース弾けよ。一緒にバンドやろうぜ」と誘った。これからのことが決まっていないなら、美容師になるようにも勧めた。母は、兄弟が何気ない会話をする姿を見て、「あの日々、私は人生でいちばん幸せでした」と振り返っている。兄に殴られることを覚悟して帰ったが、兄はとても優しく迎えてくれた。

当時、兄は妻子と他県で暮らしていたが、体調を崩し、名古屋の実家で療養していた。成田は、家族と一緒にいることが兄にとっていちばんよいと説得し、兄は家族のもとへ戻ることになった。11月10日、成田は兄の家まで一緒に行こうとしたが、兄は「大丈夫。ひとりで行けるよ」と断り、成田は兄を駅で見送った。その日は、バケツをひっくり返したような雨が降った。その夜、兄は自ら命を絶った。成田は、その死の一因が自分にあるのではないかと長年悩み続けた。「兄貴を殺したのは俺だ」と自分を責め、その後の数年間、ふとした瞬間に涙が止まらなくなった。

兄は以前から病気を抱えていたが、成田にはそのそぶりを一切見せず、気づけなかったと話した。兄が亡くなったのは、成田が実家に戻ったひと月後だった。成田は「そのショックがあまりにも大きく、立ち直るのにひどく時間がかかりました。今でも、ふとしたときに悲しみがよみがえります」と語っている。成田が音楽から離れていた理由には、自分の行いへのけじめのほかに、兄の存在も大きかった。

名古屋の工場に勤めて1年がたつころ、成田が兄を思い出して涙を流す回数は減った。成田は、悲しみは一生消えないが、ようやく受け止められるようになったと話し、今も雨が降ると、あの日を思い出す。兄が「もういつまでもくよくよしてんじゃない」と言ってくれているのだと思っている。それまでには、酒に逃げたことも、家族に当たったこともあった。兄を実家から家族のもとへ帰したことや、駅で見送って一緒に行かなかったことを悔やみ、「俺が兄貴を殺したんだ」とずっと思っていたが、ようやく「何をそんなお門違いなことを。何様だよ」と思えるようになり、「あの日のあの時間には、二度と戻れないんで」と、自分にけじめをつけた。以前は、兄が目の前に現れたら「兄貴、ごめん」と謝りたかったが、今は、何も言わずに抱きしめて、「ごめん」でも「ありがとう」でもなく、「飲もうぜ」と言いたいという。兄はビールが好きだった。帰ってきたら「よかった」と言いたいとも話している。

グレッチ 6120

兄は、東京の成田を訪ねて2人でビンテージギター屋を巡った時、中学のころに憧れたブライアン・セッツァーが使っていたのと同じ、1959年製のグレッチ6120を探していた。なかなか見つからなかったが、ある日、兄から「見つけたよ。ちょっと高いんだけどさ。一緒に見に行きたいんだけど時間ある?」と電話があった。成田は仕事で行けず、兄はその日、一人で店に行って、オレンジのグレッチ6120を買ったのだと成田は思っている。兄の死後、成田は、このギターの手入れを欠かさなかった。名古屋に戻る前に、ギターを二度と弾かないと決めて、持っていたギターをすべて手放した成田の手元に、このギターだけが残っていた。2020年、男闘呼組の4人のセッションのために兄のグレッチを構えた成田に、兄の「好きなんだろ、ギター」がよみがえった。成田は、兄の言葉がなければ、二度とギターを弾くことはなかっただろうという。

2020年、男闘呼組の再始動を決めた成田は、兄の墓前で「これからまた音楽やるよ。兄貴のギター、使わせてもらうね」と誓い、52歳で再び上京した。

2022年7月16日の『音楽の日』の収録でも、成田は兄のオレンジのグレッチを弾いた。「兄貴がいなければギターも音楽も始めてなかった。きっと、男闘呼組が再始動することも、このステージに立つこともなかった。兄貴はもういないから、一緒にバンドをやろうって約束は果たせないけど、俺には兄貴が遺してくれた、このギターがあるよ。このギターを弾いてる時は一緒に演奏してるって感じるんだ」と話している。

2020年11月11日の Instagram で、成田はこのギター(Gretsch 6120)を次のように紹介した。

成田は2022年のインタビューに兄の形見のグレッチを持参し、「再び音楽をやるにあたり、力を貸してもらおうと思って。ずっと手入れだけはしていました。兄貴が乗り移っているのがわかるんですよ」と話した。ライブでは、このギターと、仲本工事から譲り受けたギブソン ES-335 をメインで使っている。

2021年には、兄のお気に入りだったギターアンプも Instagram で紹介した。

2026年3月22日の放送では、験担ぎに持ち歩く物として「僕が使ってる兄貴のグレッチの6120ってギターのキーホルダー」を挙げた。

兄の形見のグレッチは、成田にとって最もクールなギターであり、最も信頼でき、頼れる存在でもある。「時には厳しくされる」一方で、甘えさせてもくれると表している。

父と兄のギター

1995年の春、父の邦昭が道で倒れて頭を打ち、危篤になった時、兄は成田に知らせ、病院のベッドの脇で号泣した。葬儀の喪主は、兄弟で務めた。

成田は2021年の Instagram で、26年前に亡くなった父の財布から、兄のギターを父が勝手に質に入れた札が見つかったと明かした。2021年に親戚から届いたこの財布には、1986年の男闘呼組のライブのチケットも入っていた。

名古屋に戻ってから

名古屋に戻った成田は、兄と共通の同級生の友人から、仕事が見つかるまでの間に大工の仕事をしないかと声をかけられた。成田は友人たちを頼り、2010年の正月から、41歳で大工になった。その後に勤めた材木店と工場では、明るく社交的で、「どれだけ友達いるんだよっていうくらい、すぐに誰とでも友達になっちゃう」母と兄を見習って、会社の飲み会に必ず出た。

歌

成田昭次の曲「after rain」の歌詞は、兄への深い思いを込めて書かれた。2022年4月1日の成田のソロの公演『犬も歩けば棒に当たる』では、成田は「これは兄貴を思った歌です」と話して、この曲を歌った。

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