男闘呼組

男闘呼組(おとこぐみ)は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて活動した、ジャニーズ事務所所属の4人組男性ロックバンドである 。メンバーは成田昭次(リードギター、ボーカル)、高橋和也(ベース、ボーカル)、岡本健一(リズムギター、ボーカル)、前田耕陽(キーボード、ボーカル)の4名で構成される 。

1985年に結成され、1988年にシングル「DAYBREAK」でレコードデビュー 。デビュー曲がいきなりオリコンチャート1位を獲得し、同年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞1するなど、華々しいスタートを切った 。従来のアイドルグループとは一線を画す本格的なロックサウンドと、メンバー自身が作詞作曲を手掛ける(後期)スタイル、そして硬派なイメージで、当時の音楽シーンにおいて異色の存在感を放った 。

活動期間は約5年と短かったものの、後続のジャニーズ系バンド(TOKIOなど)に影響を与え、また2022年から2023年にかけての期間限定再結成は大きな話題を呼んだ 。

目次

名義履歴

  • 東京:1985年にジャニー喜多川が名付けた前身のグループ名。
  • 東京男組:「東京」の後、「男闘呼組」への改名前に使ったグループ名。
  • 男闘呼組:1985年3月に「東京」から改名した。「男は闘いを呼ぶ」という意味が込められている。

メンバー

1985年から1993年までと、2022年7月から2023年8月までの活動を担った4人の旧メンバーと、主な担当は次のとおりである。前田は初期にはサポートとして参加し、その後、正式に加入した。

  • 成田昭次(なりた しょうじ) ヴォーカル、リードギター
    • 1968年8月1日(56歳)、A型、愛知県名古屋市熱田区出身
    • 初代リーダーでもあった 。特徴的なハスキーボイスを持ち、楽曲においては高音域のハーモニーや、サビでの力強いリードボーカルで存在感を発揮した 。活動中期以降はソングライターとしても多くの楽曲を提供し、特にメッセージ性の強い詞やメロディアスなロックナンバーを得意とした 。名古屋出身で、兄を通じてジャニーズ事務所入りし 、野村義男からギターの指導を受けた 。
  • 高橋和也(たかはし かずや) ヴォーカル、ベース
    • 1969年5月20日(55歳)、O型、東京都世田谷区出身
    • 楽曲の主旋律を担うことが多く、そのストレートで情熱的な歌唱スタイルはグループのカラーを決定づける要素の一つだった 。バンドの主要なソングライターの一人でもあり、社会風刺や自身の信条を反映したメッセージ性の強い歌詞を多く手掛けた 。バンド活動中から俳優としても高い評価を得ており、ドラマや映画で活躍した 。ライブハウス経営者の父の影響で音楽に親しみ、自らジャニーズ事務所の門を叩き、初期のバンド結成に関わった 。
  • 岡本健一(おかもと けんいち) ヴォーカル、リズムギター(サイドギター)
    • 1969年5月21日(55歳)、O型、東京都新宿区下落合出身
    • リードボーカルを取ることもあり、甘さと力強さを併せ持った歌声で楽曲に彩りを加えた 。後期アルバムには自身で作詞・作曲したソロ楽曲も収録されており、内省的、あるいは実験的な作風を見せた 。俳優としてもバンド活動と並行して活躍し、評価を得ていた 。成田からギターを学んだ経験を持つ 。後年、メンバー間の再会のきっかけを作るなど、グループにとって重要な役割を果たした 。
  • 前田耕陽(まえだ こうよう) リーダー・ヴォーカル、キーボード(以前はドラムス)
    • 1968年8月16日(56歳)、A型、東京都八王子市出身
    • キーボーディストであり、時にドラムやパーカッションも担当した 。ボーカルとしては主にハーモニーやコーラスを担ったが、一部楽曲ではリードボーカルも務めた 。当初は楽器経験が浅かったものの、努力を重ねてバンドに不可欠な存在となった 。作曲も手掛け、他のメンバーが歌う楽曲を提供することもあった 。二代目リーダーを務めた 。音楽活動以外にも、俳優業やバラエティ番組への出演など、マルチな才能を発揮した 。

初期には、次の3人も参加した。

デビューの時に、高橋の独断で前田がリーダーに選ばれた理由は「遅刻をしないから」だった。メンバーが一人暮らしを始めた後、時間どおりに現場に着いた前田は、30分おきに現れるほかの3人を待つことがあった。3人はテレビの生放送には遅れなかったが、収録や取材には遅刻することがあり、前田は、待つ間にスタッフの表情が険しくなっていくのを見ていたと振り返っている。12再始動後には、前田が最後に着くこともあるほど皆が早く集まるようになった。成田も、昔は2時間の遅刻が当たり前だったのに、再始動後は集合時間の1時間前にそろうこともあると振り返っている。3

経歴

男闘呼組の始まりは、1984年夏、ジャニー喜多川の引き合わせで成田昭次・高橋一也(今の高橋和也)・岡本健一が演奏を始め、前田耕陽も参加したことにある。1985年に「東京」と名付けられ、メンバーや担当の変化を経ながら「男闘呼組」へ改名し、徹夜の練習とテレビ出演を重ねた。1986年のファースト・コンサート『祭 男闘呼組』は、4人がひとつになり、前田が自分の居場所を感じた節目だった。4人そろって主演した映画『ロックよ、静かに流れよ』での共同生活と役づくりは関係を深め、岡本は、この作品がバンドの土台となりレコードデビューにつながったと振り返っている。

男闘呼組は1988年8月24日、「DAYBREAK」でレコードデビューし、オリコンチャートで最高1位を獲得した。同年には輝く!日本レコード大賞の最優秀新人賞・優秀アルバム賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場した。全国ツアーと1989年の東京ドーム公演を重ね、個々の音楽性を追求した1992年の三部作へ進んだ。一方、個人の仕事との両立や制作の分化、メンバー間の衝突も経験し、高橋一也の解雇が決まると、成田昭次は3人でのツアーもソロでの代替も断った。全国ツアーは中止となって、舞台『the Slab Boys』の千秋楽に当たる1993年6月30日付で活動を休止した。

活動休止後、4人は音楽や俳優の仕事へ進んだが、再びともに演奏したいという思いは残った。消息の途絶えた成田を岡本が捜し、2016年のメールでの交流回復と2019年の再会を経て、2020年8月4日に4人は27年ぶりにスタジオで演奏した。前田も、名古屋で成田と久しぶりに食事をし、その後、男闘呼組の曲を一緒に歌ったと振り返っている。名古屋で築いた生活を手放すことに迷った成田は、岡本の説得と職場の後押しを受けて再始動を決意し、再上京して音楽を再開、4人は自主練習を重ねた。

4人は、自分たちの手で活動に区切りを付けるため、2023年8月までの期間限定で再始動した。2022年7月16日のTBS『音楽の日』で29年ぶりに4人で番組に出演し、成田のソロ曲だった「パズル」も演奏して、同年10月の『男闘呼組 1988』からライブを再開した。成田は、この復活公演で、30年近く待っていてくれた大勢のファンを目にしたことに最も心を動かされ、感謝したと振り返っている。翌年は1993年に中止した会場を中心に『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』を行った。そのツアーとRockon Social Clubの初ワンマン公演の準備は並行し、高橋は、同じ曲でも異なる版を演奏する忙しさを感じる一方、2つのバンドでの活動を「30年ぶりに来たビッグウェーブ」と捉えていた。

再びともに活動する中で、メンバーの関係にも変化があった。成田は、昔の仕事では、年下の岡本と高橋が主導権を持っているように感じていたと振り返っている。岡本は、当時は互いの我が強く些細なことでも衝突した一方、年齢を重ねて以前より仲がよくなり、ツアー中も毎晩一緒に食事をしていたと語っている。男闘呼組は、単独では初めての日本武道館公演を経て、2023年8月26日の日比谷野外大音楽堂公演で解散した。前田は、終幕の寂しさを認めながらも、1年限定の活動だと納得して始めたことと、Rockon Social Clubという未来があったことが、深く落ち込まずに進む支えになったと振り返っている。

男闘呼組の解散後も、4人は寺岡呼人・青山英樹とのRockon Social Clubで活動を続け、男闘呼組の8曲を録り直した『2023』を発表した。Rockon Social Clubとしては、2023年と2025年のNHK紅白歌合戦に出演し、アルバム『THE SHOW MAN』で2025年の日本レコード大賞の企画賞を受賞した。寺岡は、2024年のツアー中に映画『ロックよ、静かに流れよ』を見て、ブランクを経ても4人の友情の感じは当時と変わらないと、うらやましく感じていた。原盤が廃盤で配信もない中、セルフカバーは男闘呼組の曲を公式に聴く入口となり、2026年には、岡本が選曲を監修した第2弾『WARRIORS -男闘呼組 SELF COVERS- Rockon Social Club』の11月6日の発売が告知された。同作では、1988〜1993年の男闘呼組の30曲を、当時の歌割りとアレンジをできる限り尊重して録り直した。

結成から解散後までの詳しい歩みは、男闘呼組の結成とデビュー前、男闘呼組のデビューから活動休止まで、男闘呼組の再始動まで、男闘呼組の再始動、男闘呼組の解散後を参照。

音楽性

男闘呼組は、自分たちで楽器を演奏し、4人全員がリード・ボーカルをとるロックンロールバンドとして活動した。声域の違いを生かす歌い分けとハーモニーが持ち味で、再始動後もサポートドラマーとともに演奏した。メンバーそれぞれが持ち寄った邦楽・洋楽のルーツが混ざり合い、男闘呼組の音楽になった。4人はライブを最も楽しい仕事とし、成田昭次は技術だけでなく、聴いて見てエネルギーが伝わる「かっこいいバンド」を目指した。

洋楽の影響は、曲の音作りにも生かされた。「DAYBREAK」の全編にわたるハーモニーは、アンディ・テイラーの「アイ・マイト・ライ」を聴いた岡本健一が、最初から2人のハーモニーで歌う形を提案したことから生まれたという。「Stand Out」では、映画『トップガン』の主題歌だった「デンジャー・ゾーン」のような感じを目指したと高橋和也が振り返り、この曲を「ハードロック路線の第一号みたいな曲」と呼んでいる。

カバー曲も初期の練習からライブまで演奏の一部で、邦楽と洋楽の両方を取り上げた。洋楽を自分たちの日本語詞で歌った時期を経て、原曲の歌詞とキーでの演奏が成田と高橋の原点となり、アンコールでもカバー曲が定番になった。一方、自分たちでもデビュー前から曲を作り、『Made in U.S.A.』の「DETARAME・クレイジーナイト」「勝負!」を作詞・作曲ともグループ名義で発表した。『I’m Waiting 4 You』では全曲の作詞・作曲・アレンジにメンバーが携わり、次のアルバム三部作では、それぞれが持ち寄った曲をメンバーや親しいミュージシャンと仕上げる方法へ広がった。

成田は、若いころに背伸びして演奏した曲を財産と考え、50代で弾き直す中で、曲にようやく演奏が追いついたと感じている。再演には速いテンポや複雑なアレンジという難しさもあったが、高橋と成田は、歌い直すことで若いころの声や、世代を越えて歌える詞のよさも見直した。男闘呼組の曲は、4人がそろうRockon Social Clubのほか、NARITA THOMAS SIMPSON、岡本のADDICT OF THE TRIP MINDS、成田の個人名義の公演でも受け継がれている。岡本が成田の公演にゲストで加わって「Midnight Train」を演奏するなど、曲を通じて元のメンバーが再び共演する機会も生まれた。編成と歌い分け、音楽のルーツ、カバー曲、自作曲のレコーディングと再演については、男闘呼組の音楽を参照。

作品

男闘呼組は、1988年のデビュー・シングル「DAYBREAK」から、1993年の『ロクデナシ』までに、シングル10枚とオリジナル・アルバム8枚を発表した。高橋和也は、男闘呼組のアルバムをアナログ盤で出したのは『男闘呼組 二枚目』までだったと振り返っている。単独名義の作品に加え、1993年のオムニバスアルバム『TOKYO』にも「TOKYOプラスティック少年」で参加した。このほか、CM・テレビ番組の歌や、映像作品で発表した曲、CDとは違う版など、CD化されていない楽曲・版もある。

映像作品は、1987年の『Made in U.S.A.』に始まり、再始動後の公演を収めた2024年の『LAST FOREVER』が最後となった。映画では、4人が主演した『ロックよ、静かに流れよ』(1988年)で、内藤剛志、由美役の大寶智子らと共演した。芸人・DJのダイノジ・大谷は、この映画を好きになったことから男闘呼組の曲も聴くようになったと記している。同じ1988年には、少年御三家の日本武道館公演を編集した『少年武道館』も公開された。写真集の撮影も行い、1991年夏には写真集のためにロサンゼルスを訪れた。

男闘呼組の曲の原盤は廃盤で、配信もされていない。前田耕陽は、音源を入手できない人が多いと述べている。メルカリでの中古CDの入手についても、自分の知る例では2万〜3万円の物もあり、欲しくても品物がなかなか出回らないと話している。前田は、個人として男闘呼組の楽曲の権利を買い取りたいと考えたことがあるが、実現しなかったと振り返っている。原盤はソニーが持っていると聞いたことがあるとも述べた。自身はCDを各5枚ずつ所蔵しており、再入手しにくいことから、自分たちの作品は捨てずに残している。

LIVE

活動休止前の公演と演出

演奏の場は、1985年の少年隊のコンサートへの参加から、1986年のファースト・コンサート『祭 男闘呼組』、各地を回る単独公演や全国ツアーへと広がった。初期は東京厚生年金会館が定番の会場で、1989年の『男闘呼組 夏・Big Tour ’89』では東京ドームでも演奏した。1991年には『I’m Waiting 4 You ’91』で全国を回った。単独公演に加え、1989年には博覧会よかトピアの催し『ヤングフェスティバル1』にも出演した。 成田昭次は、男闘呼組時代、同じレコード会社のイベントにもんたよしのり、西城秀樹、SHOW-YAの寺田恵子と男闘呼組が出演し、その時にもんたに挨拶したと振り返っている。

各地を回る公演は、多くのスタッフにも支えられた。前田耕陽は、大きな会場では終演後にトラックで次の会場へ楽器を運んでもらえたと振り返っている。初期の地方公演ではツインの部屋に2人ずつ泊まったと、岡本健一は覚えている。一方、当時4人で花見に行った記憶は、岡本にも成田昭次にもないという。成田には、若いころのツアーで野村義男のギターを借りたかもしれないという記憶もあり、『野村義男60th Anniversary Live』で見た赤いギターに、その楽器を重ねている。また、ACEは、男闘呼組の所属事務所の招待で東京ドーム公演を見た際、一緒に観覧する約束だった野村が、ゲストとしてステージでギターを弾いていたと回想している。

演奏とMCの配分は、時期によって変わった。成田は、デビュー当初は高橋和也を中心としたMCがあり、『5』シリーズを出したころのツアーから、あまり話さなくなったと記憶している。前田も、Rockon Social Clubより男闘呼組時代の方がよく話していたと振り返っている。曲順は岡本健一と高橋が決めていたと思う、と岡本は回想し、その中で成田が難しい曲などを断ることもあったという。一方、成田自身は、それほどの主導権があったとは考えていない。客席とのやり取りもあり、岡本は、客席に飛び込んで終わる公演もあったと覚えている。東京厚生年金会館では、前田が前日のラジオで大根を持ってくるよう呼び掛け、ステージの前面に大根が並んだこともあった。前田と成田の両方が覚えている出来事で、前田は、観客がラジオを聴き、喜ばせようとして持参してくれたことをうれしく感じていた。

再始動後の公演と4人のステージ

再始動後は、2022年の『男闘呼組 1988』から、翌年の全国ツアー『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』、日本武道館の『男闘呼組 LAST FOREVER』へと公演を重ねた。この武道館公演では、オープニングアクトのQUMANOMIによる「STAY WITH ME」に、成田は感動した。

成田は、再び演奏できることを、演奏に集中できる環境を作るスタッフと、会場に集まるファンの支えによって実現したものと捉えている。4人の誰かが欠けても成り立たないという成田にとって、高橋のMCも「演奏のひとつ」であり、前田も、高橋のMCがライブを盛り上げると考えている。その場で生まれるMCも含めてライブを楽しみたいという姿勢は、4人に共通していた。

再始動後の衣装は、スタイリストの馬場圭介が担当した。高橋と前田耕陽は用意された衣装をほぼ5分で決める一方、成田と岡本健一は選ぶのに時間をかけると、高橋と前田は話している。高橋は役の衣装を着る俳優の感覚で任せ、前田は小物などを加えることもあり、岡本はスカートやワンピースを自分で用意していた。ツアーでは皆で広島の懐かしい屋台も再訪し、前田は昔の味に出会えたことを旅の喜びと捉えている。

再始動後の公演では、本番前にいつも円陣を組み、神戸牛やシャトーブリアンのように、その土地の名物を叫ぶこともあった。掛け声はその場のアドリブで決め、成田は、名古屋では手羽先や、味噌煮込みをもじった「味噌煮込ミー」だったかもしれないと振り返っている。ステージでは、前田がショルダーキーボードを持って前へ出る場面で4人が横にそろい、前田が振りを付けてほかの3人を踊らせる演出もあった。野外の2023年8月4日の河口湖ステラシアター公演では、舞台後方が開くと夕日と富士山の景観が広がった。前田はその景観を「最高」と感じ、この会場で再び演奏したいと望んでいる。

来場者

再始動の公演には、音楽仲間や後輩、家族も足を運んだ。『男闘呼組 1988』の東京ガーデンシアター公演では、寺岡呼人が2022年10月の4公演をすべて観覧し、成田昭次は、終演後に楽屋にいる寺岡の姿にメンバーが安心したと振り返っている。初日の10月15日には松岡昌宏も来場した。A.B.C-Zの戸塚祥太は友人を誘って観覧し、楽屋で成田昭次と初めて会った。雷神と前田耕陽の父も観覧し、前田が前で見たいだろうと用意した一般席で、父はずっと立って見ていた。

中居正広は男闘呼組について「一番聴いたロックミュージシャンは男闘呼組」「とても優しい先輩だった」と語っている。『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』の2023年5月25日の名古屋公演には中居が来場し、アンコールでメンバーが「夜空ノムコウ」を披露して中居を紹介した。終演後、中居は初めて4人全員と私的に食事をし、昔から誰も意地悪をせず、とっさに敬語が崩れても態度を変えない、気負わず過ごせる先輩たちだと感じていた。夏の『男闘呼組 LAST FOREVER』の日本武道館公演には、竹内まりやも足を運び、終演後に成田と初めて会って挨拶を交わした。

木村拓哉も、昔から温かく接してくれた男闘呼組に憧れ、メンバーに通っているヘアサロンを直接尋ね、同じ店で髪を切っていたという。武道館最終公演のアンコールを終えて去る4人には、拍手だけでは足りないと感じ、自然に深く頭を下げたと振り返っている。

岡本圭人にとっては、父・岡本健一をバンドのメンバーとして見る機会にもなった。初めて男闘呼組のライブを見た時、ステージのグループ名を目にしただけで涙を流し、ギターを弾く父の姿にも心を動かされた。

出演

テレビ番組

レコードデビュー前からテレビ・ラジオの番組に出演し、バラエティでは司会も務めた。1985年の『欽ちゃんのどこまでやるの!』には、成田昭次・岡本健一・高橋一也(今の高橋和也)の3人が出演した。前田耕陽も、自分以外の3人が出ていたと覚えている。翌1986年には初めての冠番組『アイドル花組おとこ組』で4人が司会を担当し、『ヤンヤン歌うスタジオ』のレギュラーにもなった。1987年の『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』でも司会を務め、両国国技館で番組に出演した。テレビの水泳大会では、4人がそれぞれ別の騎馬に入って騎馬戦に参加した。

音楽番組では、1987年から1993年にかけて、『夜のヒットスタジオ』『MUSIC STATION』『ザ・ベストテン』『歌のトップテン』にくり返し出演した。『夜のヒットスタジオ』の冒頭のメドレーでは、高橋か成田がワンフレーズを歌い、次の歌手へマイクを渡す時の紹介を前田が担当することが多かった。岡本には、その紹介をしなくてよいと自分たちから伝えていたと、前田は振り返っている。『ザ・ベストテン』には、1988年10月27日に北海道の稚内からの中継で出演した。番組の演出にメンバー自身が驚くこともあり、『ザ・ベストテン』の「ふんどし」の演出は事前に知らず、後ろを見て驚き、ジャニー喜多川が激怒したと成田は回想している。年末には、1988年・1989年の『NHK紅白歌合戦』や、両年と2022年の『輝く!日本レコード大賞』にも出演した。

公演をテレビで届ける機会もあった。『実録アイドル最前線 ’87男闘呼組の場合』(TBS)では、『夏!祭!男闘呼組コンサート』の中野公演の一部が放送された。『トップアイドル・オンステージ』では、1993年5月9日のNHKホールでの公開収録が、6月30日のNHKの衛星放送で放送された。

再始動後は、テレビでも4人の歩みと交流が語られた。再始動の始まりとなった2022年7月16日の『音楽の日2022』の事前収録には、後輩の中居正広が立ち会い、中居は自身の公式サイトでも4人をたたえた。3日後には稲垣吾郎も、自分のラジオ番組で4人のテレビでのパフォーマンスを喜んだ。 『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』では、2023年3月24日に4人がゲスト出演し、29年ぶりの復活までの歩みを振り返った。同じ番組の4月7日の放送では、中居正広との思い出を語るトークが届けられた。続く『SONGS』への6月8日の初出演は、音楽の実演を交え、再始動の経緯やメンバーの思いをNHK101スタジオでのライブとともに伝える内容として告知された。

活動の終幕を前に4人がそろった8月21日の『しゃべくり007』は、最後のテレビ出演となった。こうした出演のほかにも、再始動後のテレビ放送では、演奏映像の紹介や過去のトークの再編集によって4人の姿が届けられた。2022年7月22日の『金スマ』では、『音楽の日2022』での男闘呼組の演奏映像をノーカットで公開し、中居正広が男闘呼組への思いを語ることが予告された。

ラジオ番組

ラジオでは、文化放送の『いくぞ!男闘呼組』に続き、1987年には『東京っ子NIGHT お遊びジョーズ』内の『Teen’sギャング男闘呼組』を担当した。『WILD KNIGHTS 男闘呼組』や、ニッポン放送の『男闘呼 DE NIGHT!』もあり、後者にはChar、SHOW-YAの寺田恵子と五十嵐美貴(sun-go)、浜田省吾がゲスト出演した。男闘呼組時代には公開ラジオも何度かあった。成田は、1人で臨む公開収録とは違い、当時は4人の「隅の方にいればよかった」と振り返っている。また、成田はニッポン放送を「ある意味男闘呼組の原点」と捉え、岡本も同意している。

再始動後にも、ラジオでメンバーが集まる機会が生まれた。成田・高橋・岡本が『ROCKON TIMES』を担当した際、成田は、メンバーでのラジオは『WILD KNIGHTS 男闘呼組』『男闘呼 DE NIGHT!』以来だと振り返っている。3人は2023年6月12日にも、『THE TRAD』を担当する稲垣吾郎のもとをサプライズで訪ね、番組に出演した。 稲垣は、男闘呼組のライブへ香取慎吾と草彅剛も連れて行きたいと語った。一方、8月10日の生放送の『男闘呼組のオールナイトニッポンGOLD』は、活動再開後初めて4人全員がパーソナリティーを務め、男闘呼組として最後のラジオ出演になると告知された。成田は、4人で担当できた幸せと、生放送の緊張を振り返っている。

CM・ドラマと雑誌

CMやドラマでもグループでの仕事があり、CMでは1989年に服部セイコーの腕時計『AVENUE』、1989年〜1990年に江崎グリコ『アーモンドチョコレート』に出演した。前田耕陽は、AVENUEのCMでは稚内の稚内港北防波堤ドームで4人が走る場面を撮影し、「TIME ZONE」が流れていたと振り返っている。ドラマでは、1987年の『ぼくの姉キはパイロット!』に4人で出演し、パイロットの川崎敬詩役の陣内孝則、三浦桃子役の風吹ジュンと共演した。翌1988年の『オトコだろッ!』でも4人が共演した。共演者の西田敏行は、若い4人にも分け隔てなく、穏やかに接した。西田の訃報を受けた4人は、当時の撮影を思い出して話し合った。

放送以外では、雑誌の男闘呼組のコーナーで、漫画家のカトリーヌあやこが4コマ漫画を描き、男闘呼組のイラストや漫画も描いていた。少女漫画の単行本にもなったと、前田と成田は振り返っている。

グッズ・ファンクラブ

後援会と会報

ファンクラブの男闘呼組後援会は、1988年11月の第1号から1994年5月の第29号まで、会報を29号出し、4人の特写とインタビュー、ライブや舞台、ドラマ、映画の報告を届けた。第4号では初めての特写を行い、4人へのインタビューを載せた。会員証について、前田耕陽はピックの形だったと振り返っている。活動休止の後、後援会は1994年5月の会報第29号を最終号として解散し、1994年分の会費を返金すると知らせた。

前田耕陽は、ファンに渡すサインで「男闘呼組」の字を何千枚も書き、自分の名前を楷書で書くより上手に書けると自信を持っている。とりわけマジックで書くことを得意とする一方、宛名は字のきれいな岡本健一に頼んでいた。4人の筆跡について、成田昭次は岡本・前田・高橋和也の字は上手いと感じており、自分の字が4人の中で一番下手だと評している。

再始動のグッズと昔の品への思い

再始動にあたっては、成田のミニアルバム『犬も歩けば棒に当たる』のジャケットの犬「昭ワン」から、4人いるので4匹いた方がいいと、昭ワン、健ワン、和ワン、耕ワンの4匹の犬が生まれた。もとの絵を立体にしたぬいぐるみもグッズとして発売された。グッズにはアクリルスタンドもあり、成田は、自分のものが全身ではなく膝までの形だったと振り返っている。

成田は、35年前の男闘呼組のシールが残っているとして届いた机の写真を見て、昔の机を懐かしみ、前田や高橋の姿を見分けた。残っていたことを喜び、これからも剥がされずに残っていたらうれしいと語っている。


  1. 2025年9月7日放送の『日曜の午後は耕陽を聴こうよー!』。 ↩︎
  2. 2025年10月5日放送の『日曜の午後は耕陽を聴こうよー!』。 ↩︎
  3. 成田昭次「この先もずっと、音楽をやっている姿を見せていけたらと思います」(ananweb、2026年3月15日) — 部活のような音楽の始まりと、渋谷のヤマハで夜10時から朝6時まで続けた練習。昔は2時間の遅刻が当たり前だったのに、再始動後は集合時間の1時間前にそろうこともあるという成田の回想。 ↩︎

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