青山英樹は、日本のドラマー。スタジオ・ミュージシャン。本名同じ。東京都出身。日本芸術高等学園卒業。既婚。EVER+LASTのドラムスのほか、日本芸術専門学校の講師も務める。2006年にプロドラマーとしてデビュー以降、様々なジャンルのライブやレコーディングで活動している。父は青山純。


経歴
幼いころから父・青山純のライブやリハーサルへ遊びに行き、軽くドラムを叩かせてもらっていたが、もともとはサッカー少年だった。小学校のころは、ちょうど J リーグが始まったころで、ヴェルディが大好きで、サッカーの選手を目指していた。小学校から中学校へ進む時に、ヴェルディの中学のユースの試験を受け、最終まで残ったが落ち、見に来ていた父の前で、6、7年続けたサッカーをきっぱりやめた。何もすることがなくなり、中学から音楽に目覚めたという。洋楽の好きな友達に、父がドラムをしているなら叩けるだろうと言われ、セッションをしようと、街の練習スタジオで、中学で流行っていた THE BLUE HEARTS や Hi-STANDARD のようなパンクを叩いたのが、初めてのドラムだったと話している。本格的に始めようと思ったのは中学2年生くらいで、部活を終えて次にすることを考え、家にあった練習パッドを叩き始めた。ヴェルディ川崎のユースのセレクションは、最後の3人まで残って落ち、それまで張りつめていた糸のようなものが「“プツン”って音を立てて切れちゃった」という。周りが高校受験で部活をやめていくころ、遊びに来ていた友達と、家にあった電子ドラムセットのようなものを何の気なしに叩いてみると、すごく楽しく、それを自分の転機に挙げている。父がそばでしていたことを見聞きしていたので、いつの間にかリズム感が養われていたのかもしれないといい、すぐにバンドを組んで、ハードロックを始めた。

14歳の時、横浜・関内の7th AVENUEで初めてのライブを行った。スタジオのメンバー募集の貼り紙に応募して20歳前後のメンバーと組み、祖母も見に来たという。 中学2年生の秋か冬だったと記憶しており、貼り紙の電話番号に自分で連絡し、5、6回ほど練習して、対バン形式の約30分のステージでオリジナル曲を5曲ほど演奏した。緊張で一日中落ち着かず、体に力が入り、練習のしすぎで手のまめもむけたことを覚えている。前方で見てくれた祖母を「初めて自分を見たお客さん」と呼び、平日で両親は仕事だったと思い返しているが、祖母は終演後に会わず、夕飯を作りに帰ったのではないかと振り返っている。
昔はずっとバンドを組んでいたが、もっとプロ意識でやりたいという気持ちなど、メンバーとの間にいろいろな差が出てきて、なかなかうまくいかなかったと話している。前田耕陽が、父がプロだったのを見てきたこともあるのではと言うと、それもあると応じた。
中学でバンドを組んでから、進学する気持ちはまったくなくなり、音楽だけで生きていくことに迷いはなく、プロになって活躍できると信じていた。アマチュアのころは、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルのようなハードロックのバンドでライブハウスに出て、レコード会社から声がかかり、2006年に5人組のロックバンド ARMERIA(アルメリア)のドラマーとしてデビューした。19か20歳のころ、メジャーで売れるにはハードロックではなくポップスでないと難しいと言われ、好きな音楽だけでは音楽で食べていくのは難しいと初めて知って、壁にぶつかった。ARMERIA は、デビューから2年で解散した。ビジネスとしての成功も考え、いろいろな視点から見なければいけないと思い知らされ、さまざまな価値観の勉強にもなったと振り返っている。サポートドラマーとしての仕事は、およそ20年前に JAM Project で始まり、サポートではいちばん長い付き合いになっている。2025年の夏には、さいたまスーパーアリーナの『Animelo Summer Live 2025』でも叩いた。
吉川晃司のサポートの時には、シンバルを約2メートルの位置に置き、リハーサルにサンドバッグを持ち込んでいたと振り返った。初めて吉川のサポートをしたのは25、6歳のころで、大ベテランばかりのバンドの、場の雰囲気に緊張した。みんなでワイワイ話すより、とにかく曲をやっていく現場だった。吉川が蹴るための専用のシンバルがあり、青山は「タイミングよく見といて」と言われて、蹴るタイミングに合わせて、キックで締めたという。Little Black Dress のサポートもしており、参加したアルバム『アバンギャルド』の「メッチャいいじゃん!」が、2025年7月26日の『成田昭次のRockon The Knight』でかかった。
成田昭次は、2022年10月27日の『TOKYO MUSIC SHOW』で、青山を、2006年にドラマーとしてデビューし、BABYMETALのライブのサポートや、吉川晃司・B’zなどのツアーに参加してきたドラマーと紹介した。B’z は中学のころからよく聴き、友達とコピーバンドもしていたので、実際に B’z で叩く日が来るとは思わなかったという。ORANGE RANGE と JAM Project のライブのサポートや録音にも参加している。Little Black Dress とは、活動の立ち上げのころから一緒で、事務所の先輩の MISIA のドラムを父の青山純が叩いていた縁から出会った。MISIA の武道館の公演(『平成武道館』)で Little Black Dress がオープニングアクトを務めた時に、ドラムを叩いた。Little Black Dress の「ちょーかわいい」の元の録音でもドラムを叩いた。
最初にサポートした歌手は「多分」きただにひろしだったと振り返り、そこから仕事が広がったと語っている。吉川晃司のシンバルキックを間近で見た迫力や、怖そうな第一印象に反して優しい人柄も印象に残っている。2025年には ORANGE RANGE のフェスなどのライブもサポートし、自分より2、3歳ほど上のメンバーを、近い世代の兄のように感じている。
サポートで参加するライブの予定については、「Xでそのスケジュールは上がってる」と話した。
2026年のメジャーデビュー20周年に向けて何か企画したいと考え、ドラムを叩き、好きな崎陽軒を客に食べてもらうディナーショーの構想を挙げた。歌いながら客席を回る姿や移動式ドラムなど、成田昭次と案を膨らませている。
成田昭次との出会いと成田商事
成田昭次とは2020年に出会った。成田の2022年のミニアルバム『犬も歩けば棒に当たる』について、青山は2026年2月8日の放送で、録音には参加していなかったと思い、参加はライブ(『犬も歩けば棒に当たる』)からだったと振り返った。そのライブで成田、寺岡呼人、青山の3人が集まり、NARITA THOMAS SIMPSON につながったという。

成田は、上京直後の Little Black Dress の公演(『参ったな2020』)で青山と初めて会ったが、最初は、男闘呼組でドラムを叩いたこともある青山純の息子だと知らなかった。男闘呼組がデビューした時に2歳だった青山は、父から「男闘呼組の曲叩いてたんだよ」と聞かされていて、「ボンヤリですけど、小さい頃の記憶にあります」と話したという。2022年6月14日、成田のツアー『犬も歩けば棒に当たる』の Billboard Live TOKYO の追加公演(1st・2nd)で、成田・寺岡と新しいバンド「成田商事」の結成を発表した。
成田は、約5年前の Billboard Live 横浜で、Little Black Dress をサポートしていた青山と出会ったと2025年7月に話し、「ちょーかわいい」にも触れた。2022年10月には、音楽の活動を始め直した時から、青山とDevin Kinoshitaに「2年も支えられてますからね」と話している。2023年3月30日の放送でも、成田は、2020年11月3日の Billboard Live 横浜の公演(1st・2nd)で初めて青山と会ったと話し、青山は、出会って3年なのに「もうなんか10年ぐらい一緒にやってるような」と話した。サポートを始めたころの成田は物静かで、一言も話さないほどだったが、一緒に演奏して溶け込んでいくと、すぐに変わっていった。成田は、そのころの自分を「石になるしかなかった」と振り返っている。
成田商事は会社に見立てたバンドで、青山は技術担当だが、宣伝や広報も任されている。青山は「社長にやってくれと言われたら、『はい』って言うしかないんですよ」と話す。2022年9月の「入社式」の公演では、急にグッズの紹介を任され、Devin Kinoshita に音楽を弾いてもらって、テレフォンショッピングのような調子で、ミスト付きの扇風機を宣伝し続けた。成田商事のライブでは、ヘッドマイクをつけてコーラスもとり、Little Black Dress に「C-C-Bにしか見えませんでした」と言われた。青山にとっては新しい挑戦で、MC でもよく話す。
2022年10月26日の成田商事のミニアルバム『ボストンバッグ』のドラムは、成田が新型コロナウイルスにかかって予定が空いた時に、寺岡呼人と「よし、ここでやろう!」と言って、一気に録った。スタジオは Crying Baby で、寺岡のドラムセットを借りた。表題曲のサビに入る前のロールはとても速く、寺岡がコンピューターで作ったデモのとおりに叩いた。青山は、サビにロールで入る寺岡の編曲を、8ビートを叩きたくなるドラマーからは出てこない「斬新で面白」い発想だと話している(2023年3月30日)。
『ボストンバッグ』のドラムの連打は、成田昭次とLittle Black Dressからすごいと評された。

2023年には、成田商事のドラムとして『Rockon Social Club Secret Party』の3月4日・Zepp Fukuokaと4月8日・Zepp Hanedaの公演に出演した。10月4日の『BREAK UP SHOW 2023』(豊洲PIT)では、成田昭次・寺岡呼人とともに成田商事として出演し、アンコールで NARITA THOMAS SIMPSON への改称を発表した。ライブと並行して上映されたドラマ仕立ての映像「Reseed〜成田商事倒産の危機〜」(全6話)にも出演した。『Secret Party』では、成田商事、Little Black Dress、Rockon Social Club の3組のドラムを全部叩き、衣装を3回変えるのは初めてだった。衣装係に一気に脱がされる早着替えにも、4公演で慣れたという。成田は、いつも冷静で姿勢の正しい青山を、一番若いのに見習いたいと話した(2023年3月30日)。
9月の『BREAK UP SHOW 2023』の Zepp の3公演は、男闘呼組の8月の日本武道館の公演のころに急に決まり、青山は、帰ってきたらもうチラシができていたと笑った。3ピースの成田商事では、両側に成田と寺岡がいて、真ん中で叩く青山の前には人がいない。青山は「なんかちょっと落ち着かないんですよね。目の前に人がいないと」と話し、コーラスも歌もあるので、やることが多いという。
NARITA THOMAS SIMPSON
2023年11月25日の『NARITA THOMAS SIMPSON 1st LIVE』(LINE CUBE SHIBUYA)でドラムを担当した。青山は、3本のライブ映像の中でもこの初ライブが特に印象深く、最後にドル札が降った演出も鮮明に覚えている。改称後の約2年間で生まれた作品の量に驚き、活動の濃さから、成田商事はずっと前のことのように感じるという。
2024年には、アルバム『冒険者たちのうた』の録音に参加し、『NARITA THOMAS SIMPSON TOUR 2024』では3月1日・Zepp Hanedaの初日でドラムを担当した。『NARITA THOMAS SIMPSON 冒険者たちのうた Billboard Live』の5月22日・Billboard Live YOKOHAMAの第1部では、第2曲の後の MC で、青山を中心にメンバーが横浜について話した。
11月19日に Billboard Live YOKOHAMA で開幕した『NARITA THOMAS SIMPSON BIG BAND BEAT』と、12月25日の『NARITA THOMAS SIMPSON BIG BAND BEAT CHRISTMAS FANTASY』(横浜BUNTAI)にも出演した。12月25日に着用した衣装は、のちに堺正章 & Rockon Social Club の衣装展の案内に本人の名前で載った。この公演での堺正章の登場を成田と振り返った。
2024年12月8日の仙台公演は、インフルエンザと診断されたため出演を見合わせた。
2025年の『THE VERY BEST OF FANTASY NARITA THOMAS SIMPSON 夏越の大祓 2025』では、7月9日の Billboard Live TOKYO の夜公演で、「I♡R&R」に向けてドラムセットからカウントを始めた。この日の様子は、Rockon Social Club APP 限定映像として公開された。
2026年の『NARITA THOMAS SIMPSON 人生はとんとん Billboard Live』では、3月11日の初日(Billboard Live YOKOHAMA)の本編の最後に演奏した「パズル」でカホンを担当した。成田昭次がアコースティックギター、寺岡呼人がキーボードを演奏する初めての編成だった。青山はツアーの後、2026年4月26日の放送で「無事に完走できたのが何より」と話し、3人だけのライブについて、リハーサルで「あ、なんか少ない」と思ったと明かした。同じ放送では、4月19日の最終日の第1部に客席から登場した岡本健一について、「健一さん来ると、なんか落ち着きますよね」と話した。
男闘呼組との関わり
事務所の社長から、男闘呼組が再始動するので一緒に叩いてほしいと言われた時は、とても驚いた。父が男闘呼組で叩いていたことは知っていたが、物心つくころにはもう活動を休んでいたので、詳しくは知らず、メンバーはひと回り以上年上で、緊張感もあったという。一緒に演奏してみると、約30年前の男闘呼組と比べても見劣りせず、映像で見ていた当時のままの4人で、声もよく出ていて、とてもパワフルなことに圧倒された。

2022年10月の『男闘呼組 1988』では、サポートのドラムを叩いた。短い期間でリハーサルを詰めた日々を「台風な感じでしたね」と表し、「忘れられないし、本当、笑いとか感動とか、涙もあって」と振り返った。父の青山純も男闘呼組の録音に関わっていたので、後ろで叩いていると、いろいろな感情がこみ上げてきたという。成田昭次は、「親子2代にわたって」男闘呼組のドラムを叩いてもらえるのは光栄なことだと話し、青山と Devin Kinoshita の若い2人が、前の4人を押してくれていると話した。
再始動のリハーサルでは、メンバー4人と Devin Kinoshita とともに「MY LIFE」を何度か試したが、音数の多さやアコースティックギターとツインリードの再現が難しく、公演での演奏には至らなかった。
男闘呼組が再始動してからの成田は、昔を思い出してきたように、ソロの時にはあまり言わなかったテンポや曲順の提案を、リハーサルでメンバーにどんどん出すようになったと、青山は話している。男闘呼組のライブの本数の多さで、自分もすごく成長できたという。
2023年のツアー『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』でも、サポートのドラムを叩いた。リハーサルも長く一緒にやったと、高橋和也は話している。岡本健一は、最初に聴いた時から「これに乗っかっていきゃいいや」と思ったという。後ろで叩く青山には、ステージが始まる時のフロントの3人が「飛んで騒いで的な感じ」に見えた。曲順などで、客の思いを考えて提案するのは岡本で、高橋は「オッケー、オーライ」と言って思いを届けるタイプだという。出会った時は「めちゃくちゃ怖かった」成田昭次は、実はとても優しく、ツアーでは、大きく動く成田が足をつったり肩を痛めたりしないか心配していた。同じ「後ろ組」の前田耕陽とは、いちばんよく目が合い、今どんな雰囲気なのかが、気持ちで通じているようだという。
メンバーが泣いていないのに自分だけ泣いていたらおかしいと我慢していたが、『Midnight Train』で涙腺が崩れ、『終わらない魂』まで、MC の間も泣きっぱなしだったという。メンバーではなかったが、長いことメンバーのように一緒にやってきた感じがあると話している。成田昭次は、青山のおかげで若々しくなれたと言い、高橋和也は、50代になって帰ってきた男闘呼組に青山のドラムが入ったことで、「進化した男闘呼組」を見せられたと話している。成田は、2023年に、青山がドラムを叩いて昔の『DAYBREAK』や『TIME ZONE』をやった時、新しく感じなかったかと岡本健一に聞いている(2024年)。
Rockon Social Club
男闘呼組のサポートからメンバーになった当初は、アーティスト写真に一緒に写ってよいのかと不思議に感じたが、サポートではなく自分もメンバーだと意識するようにした。初め成田昭次には怖い印象があったものの、実際は皆が優しく、年上のフロントの力に刺激を受けた。自分が若いから押さなければと思う以上に彼らのパワーが強く、奥手だった自分も様々なことへ積極的に挑みたいと感じている。岡本健一は、青山のドラムのおかげでバンドが活性化し、若いリスナーにも響くサウンドになったと話している。岡本は、青山のドラムでちゃんと音楽になり、リズムで支えてくれる、そのバランスがすごいとも話している(2024年)。前田耕陽は、青山がずっと若いのにバンドの土台として踏ん張ってくれているので、年上のメンバーは好き勝手にやれると話している。前田は、直近のツアーで、珍しく青山にセリフを言ってもらったが、台本どおりに読んだ青山の言い方が前田のイメージと違い、そのちぐはぐさも面白かったという。寺岡呼人は、いちばん年下の青山を、メンバーの中で彼だけがバンドのプロで、ほかのメンバーだけだとあちこちに行くところを、安定したドラムで元に戻し、引っ張ってもくれると頼りにしていて、紆余曲折を経たたくましさを持ち、人としてもとても大人で、気遣いの人だと見ている。Rockon Social Club を無敵だと思うわけの一つにも、日本屈指のドラマーの青山の安定したリズムを挙げている。
ライブのオープニングで SE として流している「Rockon Social Club」を、SE ではなくバンドで、生で演奏したいと話している。
後ろから見ると、男闘呼組と Rockon Social Club は違い、寺岡呼人がいることでキュッとまとまる感じがするという。年上のメンバーたちの元気さに引っ張られているところもあると話している。岡本健一は、どこにいても変わらず、相手が誰でも自分の意見を迷わず口にし、いい意味で分け隔てがない。高橋和也は、出てきたアイデアはとりあえずみんな試してみようという人で、自分の考えを言葉にして伝え、リズム隊を組む大切な存在だという。前田耕陽はムードメーカーで、いい距離感でみんなを見守り、緊張感のある空気の時にクッションのような役割を果たしていると感じ、ステージ衣装が誰よりも個性的で、誰ともかぶらない所にも、らしさを感じている。寺岡は、プロデューサーでバンドマスターでもあり、中心で構えながら大事な動きは率先していて、まとめ役がいなかったら同じ衣装を着ることはなかったと、みんなが言っていたという。Rockon Social Club は忙しい人たちの集まりなので、ツアーは1年に一度のことが多く、約1年ぶりに集まった6人が、大観衆の前でロックにパワフルに演奏できるのは、純粋にうれしく、とても楽しいという。客も爆発するようなエネルギーで応えてくれる一体感を、2025年9月5日の『Rockon Social Club Tour 2025 FOREVER CALLING -Still Rockin’-』の初日で、メンバーみんなが改めて感じたのではないかと話し、1年前に比べて男性や子どものファンも増え、ファンのすそ野が広がっていることが、やる気を呼び起こしてくれるという。自分以外はパワフルな50代のメンバーで、10歳以上離れているが、会うたびにエネルギーに圧倒される。毎公演全力で楽しみ、客にはチケット代以上のものを持ち帰ってほしいと思っている。一番年下でも、音でもステージでもみんなに頼られる存在になりたいといい、ドラムはバンドサウンドの土台なので、先輩の後ろに隠れてついていくのではなく、引っ張っていかなければと話し、それはサポートではなく、自分のバンドだからこそ感じる使命感かもしれないという。Rockon Social Club を、とにかくずっと続けたいと考えていて、売れる売れないではなく、続けていくことに意義があり、続けているからつながっていくことも多いと話している。成田昭次がよく言う「50、60よろこんで、70、80ハッピーで」の年齢になるまで続けたいといい、いい音楽をたくさんの人に届けていくことが、音楽からたくさんのものを受け取ってきた自分の恩返しにもなると考えている。
音楽
演奏
歌う人の気持ちに近付くため、一緒に歌いながらドラムを叩くことを大切にしている。どのアーティストのサポートでも必ず歌っていて、もう癖になっているのかもしれないという。成田昭次は、なかなかできることではないと話している。男闘呼組の全員が歌い、歌へ演奏を運ぶニュアンスを持つことから学んでいる。高橋和也は、その笑顔と歌う姿、後ろから鼓舞する若いエネルギーを喜んでいる。サポートドラマーは、アーティストと同じステージに立っていても立場が違い、主役のアーティストを見に来た客に対して、どう叩けばいいかを考えるようになった。アーティストより前に出過ぎてはいけないが、遠慮しすぎてもよくない、絶妙な位置を見つけなければいけないと、だんだん分かってきたという。音楽には決まりがなく、正解はないので、大事なのは自分らしさを出すことだと考えている。売れ線だからと、自分たちの色ではないものを無理にやるのはもったいなく、自分たちのやり方を信じ、ついてきてくれるファンの思いを裏切らないためにも、らしさを大事にしたいという。
曲を覚えるにも、まず歌を覚えたほうが入っていきやすいという。歌詞も含め、自分でも歌えるようにしておくことを心がけている。歌えればテンポ感がおのずと分かり、歌から入ってリズムとテンポを入れていくと、歌に寄り添える。みんなが歌うバンドなので、一緒に気持ちで入っていかないと寄り添えないと話した。力強さのもとを聞かれると、「気持ちだと思いますよ」と答え、ライブのテンションで「うわあって行く」と話した。
成田商事で少し歌うことや、ほかの現場で叫ぶことはあるが、一曲を通して歌う経験はなく、歌とドラムの両立では息が上がると感じていた。高橋がリンゴスターのように一曲歌う案を出すと、一分半ほどの短い曲を希望した。
NARITA THOMAS SIMPSON でコーラスや歌うパートを担うようになり、イーグルスのドン・ヘンリーが「Hotel California」を叩きながら歌う映像を YouTube で見直し、練習の材料にしている。自分の間合いとグルーヴで歌えることに感心する一方、自分では声や音程に意識を向けると、歌とドラムの両方がおろそかになる難しさを感じている。成田昭次は、青山にもっと歌ってほしいと望んでいる。
Rockon Social Club と NARITA THOMAS SIMPSON の違いについて、青山は「根本的にはそんな変わってないと思うんですけど」と話し、曲が違うため「ドラムのダイナミクスだったりとか」、演奏の面では違うことをしていると説明した。MC については「こういうの喋ろうとかって決めていくタイプでもないですし」と話した。バンドごとに意識して切り替えるのではなく、メンバーが3人だけの NARITA THOMAS SIMPSON では、より自然になるという。NARITA THOMAS SIMPSON は、Rockon Social Club のおとなしい3人が集まっているので、ほわほわした雰囲気で、同じ寺岡呼人が作る曲でも、Rockon Social Club はロックでエネルギッシュな曲が多いのに対し、NARITA THOMAS SIMPSON の曲は優しく、ライブの MC も柔らかい。高橋和也や岡本健一が熱いトークで盛り上げる Rockon Social Club とは真逆で、同じメンバーでもバンドが違うと雰囲気が変わるのを「バンドマジック」だと話している。43 成田昭次も、寺岡呼人・青山・自分の3人と、岡本健一・高橋和也・前田耕陽の声や演奏が加わる Rockon Social Club とでは、自然に出る音が変わると考えている。
ツーバスとツインペダルは、使い方がまったく違う。ツインペダルは、つながった2つのペダルで1つのバスドラムを鳴らし、ツーバスは、2つのバスドラムを1つずつ踏む。両方をやってきて、今は半々くらいで、昔は、スタジオにツーバスがあまり置いていないので、自分で持っていってセットを組んでいた。ツーバスは、年を取ると絶対に大変だという。
ドラムのピッチは、バラードの多い NARITA THOMAS SIMPSON では重心を低くするため低めにし、Rockon Social Club の激しい曲では音の抜けをよくするため上げている。スネアでは、約10か所で皮の張りを調整する。演奏しながらチューニングキーで調整する姿を、成田昭次は「職人技」と評している。
曲は繰り返し聴いて譜面にし、リハーサルで覚える。家ではほとんど練習しないという。ドラムの前に置く透明の板(クリアソニック)は、ボーカルのマイクへドラムの音が回り込むのを防ぐためのものだと説明した。ビルボードライブでは成田昭次や寺岡呼人のマイクとの距離が近いため2枚置き、狭い会場ではいつも使っている。練習よりも、ライブなどの場数の経験が、いちばん成長できると考えている。
仕事ではコードと曲の構成が書かれた譜面を受け取り、必要な音符を自分で書き、不要な情報を省いて見やすい形に直している。一つ一つの音を追うより、音符の並びをリズムの形として覚えると、素早く捉えられるという。
ライブではアレンジの大枠を守りながら、その日の気分やほかの楽器とのアンサンブルに応じてフレーズを変える。「Hello! Hello!」のドラムソロも、あまり事前に決めず、その場で出てきたものを叩く。成田昭次は、録音とは違うフレーズになるそのソロを、ボブ・ディランになぞらえた。ド忘れや失敗をすることもあり、次のフレーズを思い出しながら、うまくつなぐこともあるという。
派手なパフォーマンスのドラマーに刺激を受け、その動きを真似してきた。昔はスティックをよく回し、落とすこともあったが、そうした演奏をしない父の青山純には「回してる暇があったらちゃんと叩け」と叱られた。自分のスティックの持ち方には、マッチドグリップ、ジャーマングリップという呼び名を挙げている。マーチングのようなレギュラーグリップはほとんど使わず、「ロックスタイルでずっと」演奏してきたという。
「ボストンバッグ」のドラムについての感想には、成田とともに、サビの間のドラムロールのことではないかと話した。成田は、青山の演奏をきっかけにドラムを始めた学生がいることにも触れた。岡本健一も、2023年1月26日の放送で、この曲の「サビのドラムの、ヒデキのあのドラムのあれがたまらなく好き」だと話している。

成田昭次は、2025年6月15日の『YOHITO’S MUSICHRONICLE』(FM COCOLO)で、「Long Rainy Day」での青山のドラムについて、ロックドラマーならではのニュアンスを評価した。寺岡呼人も、NARITA THOMAS SIMPSON の3人による音楽性を制作意図として語った。2026年4月19日の放送では、ビルボードライブを振り返って「そして英樹くんのフィルとか、ハットの細かさとか色々、気づかされたことが結構多くて」と話した。
カホン


2026年の NARITA THOMAS SIMPSON のツアーで叩いたカホンは「これも本当にナリトマでは初めての試みで」、寺岡呼人の案によるものだった。四角い箱の下の方を叩くと低音が、上にいくにつれて高音が出ると説明し、後ろに傾けて置くのは「床に面してない方が響きが良くなるんで」、箱の中には「響き線みたいのが箱の上のほうに入ってて」と話した。『パズル』の演奏では「呼人さんがピアノを弾かれてましたからね」と振り返った。成田昭次は、カホンを叩く青山が前に出てセンターにいることを「新鮮ですよね」と話している。

録音
Rockon Social Club の『何処にもいかないから』(2023年)は、男闘呼組のツアーの合間に録った。青山は、寺岡呼人から音源と譜面をもらうと、家では練習せず、そのままスタジオに行って生のセットで叩く。練習していっても、寺岡の編曲の「こうしたい」があると、結構変わってしまうので、その場で意見を交わしながら、自分の感じと寺岡の思う感じを詰めていくという。
『冒険者たちのうた』の録音では、1日で6曲のドラムを録った。表題曲「冒険者たちのうた」は寺岡呼人の方針で一定のリズムを保ち、「思い出になる日まで」では、父・青山純が中心にいた1980〜90年代のサウンドを念頭に置いたため、間やタイミングの取り方が特に難しかったと、2024年4月10日公開のインタビューで語った。
寺岡呼人は、「Good-Bye」が青山のドラムを録る前日か前々日ごろに成田昭次から届き、すぐに編曲してドラムを録ったと振り返っている。
Rockon Social Club のセルフカバー・アルバム『WARRIORS』(2026年)の、男闘呼組の30曲の録音では、ライブで体に入っていた曲に加え、「TEARS」のように初めて取り組む曲もあり、昔のサウンドに寄せながら、自分の良さを加えた。成田昭次は、青山のドラムで自分たちにも新しい表現が生まれ、再始動のツアーの経験も録音に生きたと語っている。
この録音では、高橋和也が青山のドラムにベースを重ね、青山とライブをするような感覚で、グルーヴと勢いを大切にした。
録音ではドラムが土台になるので、最初に叩くことが多い。コラボレーション・アルバム『THE SHOW MAN』(2025年)でも、寺岡呼人が作った曲を、まず青山が叩いた。完成した音源を聴き、寺岡はコラボする人の個性をとても引き出す曲や編曲、プロデュースをしていると改めて感じたといい、6人がコラボする“SHOW MAN”をサポートするようなところもあり、ふだんはやらない曲も演奏したので、勉強になったと話している。大友康平が歌うのを聴いた時は、こんなにも奥行きのある歌があるのかと驚いたという。
機材と手入れ
古いドラムをヤフオクや海外のオークションで購入している。NARITA THOMAS SIMPSON で使っていた黒いセットは、ヤマハの2003年頃のモデルで、日本では流通しておらず海外で購入した。ツアー後には倉庫へ戻ったドラムをケースから出し、汗などを拭き取ってから保管する。皮の交換は自分で行う場合と、ツアー中にアシスタントに任せる場合がある。楽器の手入れに加え、乗っていたバイクや車、機材車にもこまめな手入れをしている。
歌用のマイクを置いたままにするとドラムの生音を拾ってしまうため、歌う時だけアシスタントに出してもらっている。以前に試したインカムマイクは周囲の音を広く拾うので、音のよさも考えて普通のマイクを使うようになった。
演奏用の手袋は、初めはロックらしい格好よさから使ったが、滑り止めや手の保護にもなると感じている。素手で演奏することもある。
好きな音楽と影響
父に勧められて Deep Purple などを聴いた。パンクを叩いて面白くなり、父にいろいろ聞くようになると、父は、とにかく Deep Purple と Led Zeppelin を勧め、速い曲を叩きたいと言うと、「Burn」のような、自分の持っている速い曲を出してくれた。すっかりはまって、たくさんコピーしたという。ドラムのフレーズの話では、初めに Deep Purple とLed Zeppelinを挙げた。「Burn」は歌い出しからドラムが細かく動き、それが疾走感につながると説明し、曲に合わせる基礎練習の入り口には Bon Jovi「It’s My Life」を挙げた。ドラムで最初に練習した曲もこの曲で、父から「お前これやっとけ」と最初に言われ、8ビートから入れて分かりやすかったという。
初めて買った CD は、ドラマの主題歌だった近藤真彦の「ミッドナイト・シャッフル」で、小学校では、友達と流行りの SPEED などを聴いていた。中学生の時、ギターをやっていた友達の母が X JAPAN の大ファンで、その友達に聴かせてもらってはまり、YOSHIKI がドラムの出発点になった。最初に覚えたのは「BLUE BLOOD」で、「紅」などで、バスドラムが2つあるツーバスを初めて知った。その後は、洋楽のハードロックにはまり、メタリカや MR. BIG のような手数の多いドラムが好きになったという。その友達は、X JAPAN 好きの母の影響で hide のファンだった。一般的なドラムのバスドラムは1つだが、YOSHIKI のセットには2つあって派手で、しかもとても速く叩く姿が「ケタ違いにかっこよく見えた」といい、「“速さこそ正義だ!”」と衝撃を受けて、ツーバスのドラマーになりたいと思った。10代の、親に反発したくなる年ごろで、父とは違うスタイルで叩くという気持ちも、少しはあったと思うと話している。

中学生のころ、父と山下達郎と3人で、ジョン・ボーナムが使っていた、ラディックのビスタライトというオレンジのクリアのドラムを見に、店へ行った。ラディックのドラムが好きな山下達郎は、ペダルを買いに来ていたようで、並んでいるペダルをずっと踏んでいたのを覚えている。青山は、今考えたらとんでもないことだと話し、成田昭次は、この話を山下達郎から聞いていた。
青山は、2026年5月3日の放送のコーナー「ガレージ・ロック」で、NARITA THOMAS SIMPSON のライブで相川七瀬と共演するための練習をきっかけに、自分が10歳ごろにヒットしていた相川七瀬の『恋心』を選んだ。4月17日の共演については「キラキラしてましたね。本当、声なんも変わんないですよね」と話した。新しい音楽とは、「YouTubeとかの広告流れてくるとことかでよく聴いたりだとか」して出会うという。
人物
家族
父はドラマーの青山純。家がほかの家と違うと思い始めたのは小学校3年生くらいで、父は、ほかの父親のようにスーツを着ず、ジャージのようなラフな格好で、平日も家にいることがあった。会社に行っているのかと聞くと、スタジオなどいろいろな所を転々としていると言うので、ドラムの仕事をしていることは、なんとなく分かったという。家では、洋楽が好きな父が聴くブラックミュージックやビートルズ、Led Zeppelin、クイーンが流れていた記憶があり、まだ歌の入っていない仕事のデモもよく聴いていたようだという。父が録音でドラムを叩いた B’z の「ミエナイチカラ ~INVISIBLE ONE~」を聴き直すと、題名のとおり、父がいない今も、見えない力となって支えてくれていると感じると話している。タイムマシンで過去に行くなら「成田さんと、うちの親父が初めて会った時っていうのを」見てみたいと話した。きょうだいとは、小学生のころによくけんかをした。反抗期は中学1年から3年くらいで、「全然可愛いもの」だったと話している。中学でバンドを組んで進学する気持ちがなくなった時、母はとても心配して「高校だけは出ておきなさい」と説得し、父は放任主義で、好きにやりなさいという感じだった。小さいころから父が叩くライブをよく見に行っていたが、プロのサポートミュージシャンになって年を重ねるにつれ、父のすごさが身にしみて感じられるようになったという。父は昔、ラーメン店をたとえに、いろいろな味があって100人いたら100人の好みは違うので、好きでない味を無理に押しつけることはできない、だからこそ、自分がうまいと信じたものをやればいいと話してくれた。その言葉が今もずっと心に刺さっているという。若いころは父と違うスタイルを確立したいという反発心があり、父とはあまり深い所まで音楽の話をしなかった。山下達郎のそばでどんな気持ちでドラムを叩いていたのか、サポートドラマーとしてどんな気持ちで寄り添っていたのかなど、尋ねたいことはいろいろあると話している。
英樹の「英」は「英雄」の「英」で、「英雄になってほしい」というようなことを言われた気がすると、名前の由来を振り返っている。「ヒデキ」という名前の話では、同じ読みの有名人の例に松井秀喜を挙げている。
成田昭次との関係
成田昭次は2025年7月の放送で、青山との18歳差に触れ、音楽面での隔たりはあまり感じないと話し、青山の古風さや落ち着きを評価した。青山は昔の男闘呼組の映像と今の成田の違いを話し、成田は35年を経て素の自分に戻れたとし、若い頃は無理をしていたのかもしれないと振り返った。男闘呼組のドキュメンタリーやライブの映像の成田は、本当に同じ人なのかと思うほどの別人で、毎日「喧嘩だぜ」というようなことを言っていたという。男闘呼組のメンバーで初めに会ったのが成田で、とても無口だった。会う前に調べて、勝手に「結構ヤンチャな人たち」と思い、男気あふれるあいさつを想像していたので、とても礼儀正しくあいさつされて、かえって怖かったという。成田は、男闘呼組・Rockon Social Club・NARITA THOMAS SIMPSON で違う人のようで、3人の NARITA THOMAS SIMPSON では寺岡呼人に任せる感じだが、Rockon Social Club では自分の意見をはっきり伝え、とにかくパワフルで、高橋和也・岡本健一・前田耕陽に引き出されている部分もあるのだろうと話している。8月生まれの前田・成田・青山は、ツアーの時などに誕生日のプレゼントを贈り合い、2025年には、前田から T シャツ、成田からパーカーをもらった。30代になって成田と2つもバンドを組めるとは思わなかったといい、コロナ禍に初めて会ってから濃い付き合いが続き、感覚としては10年か20年一緒にやっているようだという。一緒にご飯にも行き、波長が合って、気を遣いすぎずに済むので、一緒にいる時間が長くても気にならない。成田の体が痛いと聞くと本当に心配になるといい、健康第一でと願っている。
成田は、出会った時は自分が52歳、青山が30代前半だったと振り返り、それからまたたく間に B’z の仕事をし、ドラムの雑誌の表紙も飾った青山を、目まぐるしく成長していると話している。2024年2月の『成田昭次のRockon The Knight』の2週のゲスト出演の間は、それまでの「成田さん」ではなく「昭次さん」と呼び、成田からは、これからは「しょうちゃんで」と言われた。成田は、Rockon Social Club のサウンドの土台を作る青山を大きなバスにたとえ、青山のような力強い原動力があるから、自分たちはそれに乗っても安心できると話している。青山とは、Little Black Dress のライブにゲストで出た時からの付き合いだという。
父の影響で1980年代の音楽を聴いてきたため、成田とはボン・ジョヴィが好きという共通点もある。成田は、現場で青山が慌てたり怒ったりするところを見たことがないと話し、青山自身も仕事の現場ではあまり怒らないという。
2025年7月のビルボードライブでは、とっさに成田を「昭ちゃん」と呼び、客席が大いに沸いた。成田からも、これからもそう呼んでほしいと望まれている。青山は成田のようないい声が出ればと思い、成田は青山のカラオケをとても上手だと評価している。
成田昭次のファンクラブに入り、公開される動画を見ている。
レゴ
ドラム以外の趣味はレゴ作り。成田昭次も、青山のレゴの動画を見ている。名古屋のレゴランドを訪れ、レゴのホテルにも泊まったことがある。動画では、ドラム作りやライブの映像、前田耕陽のエクササイズも見ている。
レゴの配信ライブは「ちょっと落ち着いたらまたやろうかなと思ってます」と話し、5月には「3弾目に挑戦しようと思います」と話した。時間を見つけてはレゴでいろいろ作っていて、手先を使うので頭の体操になり、いい気分転換になっているという(2025年)。
バイク
バイクの中型免許を持ち、原付から250ccのビッグスクーターまで乗っていた。兄が使わなくなったスクーターを借りた経験があり、走りだすと安定感があると説明した。

生活の音とリズム
ガスの点火時の音で、火がつくまでの回数を数えながらリズムを取ることがある。点火までの回数は日によって違うと説明し、「職業病ですよね、きっとね」と表現した。
食べ物
崎陽軒の弁当が好きで、自宅で温めた時の感想を交えながら、冷たいままの味が好きだと話した。誕生日の8月29日が焼き肉の日なので、誕生日には焼き肉を食べることが多い。
炒飯弁当や幕の内と迷っても、結局はシウマイ弁当を選ぶことが多く、しっかり詰まった固めのご飯も気に入っている。中華街の店にも一度行ったが、弁当から好きになったので、温かい料理には違和感を覚えたという。

ツアーで訪ねる土地の料理が気になり、楽屋へ届けられる、その土地でしか買えない菓子や名物を楽しみにしている。
小学生のころは給食のような甘いカレーが好きだったが、食後に全身にじんましんのような症状が出て、医師から原料の何かへのアレルギーではないかと言われて以来、食べなくなった。カレーの匂いとナンは好きで、近所の店でナンを作る人たちにひかれ、おいしそうだと思いながら、カレーを頼まずナンだけを注文してよいのかと迷っている。店の人たちはいつも「いらっしゃいませ、どうですか」と声をかけてくれ、とてもよい人たちだと感じている。
バレンタインの思い出
小学校2、3年生頃のバレンタインに、自宅へ来た相手から直接チョコレートを受け取ったことが、最も記憶に残っている。その頃はサッカー少年だった。チョコレートを好み、小学生の頃には虫歯になった経験がある。
カラオケ
カラオケではオレンジレンジや男闘呼組を歌い、男闘呼組の曲は、特に成田のパートのキーが高いと話した。ドラゴンボールのテーマソングを歌う動画が、Rockon Social Club APP に公開されたことも話題になった。
『ドラゴンボール』の歌は小学生のころから聴いていて、RSC APPの動画では、影山ヒロノブをいかにうまく真似できるかを考えて歌った。

暮らし
ツアー中の体調を尋ねられ、早寝早起きについて話した。成田とは、間違えやすい道や高速道路、カーナビの案内についても話した。
23時ごろに寝て7時ごろに起きる生活を、2025年7月の時点で3、4年続けており、以前の夜更かしをして昼に起きる生活より、肌や体の調子がよいと感じている。贈られたルームウェアの BAKUNE を自分でも買うようになり、夏用と冬用の素材を選んでいるが、寝つきがよくなった感覚には、気持ちの問題もあるかもしれないという。
2024年には、夜22時か23時ごろに15〜20分だけ聞こえる上階の男性の歌声が、半年ほど気になっていた。風呂場の通気孔を通じて入浴中の歌が届いているのだと気づき、どのくらい歌がうまくなるのかという気持ちでも聴いていた。
2024年に家の椅子を買い替え、座り心地よりも見た目や色にこだわって、さまざまな椅子を見ていた。高価なものでなくても、普通の丸椅子に少し背もたれが付いたような椅子が、自分にはしっくりくるという。
2024年の夏のツアーのリハーサルには、雨の日も、かっぱを着て電動自転車で来ていたと、成田昭次と前田耕陽が話している。成田は、その域にはなかなか達せられないが見習いたいと話した。
これまで大きなけがや故障はなく、止まらずに動き続けている方が、いい調子を保てるという。長いオフでドラムから離れると、次に動き出す時がきつい。2025年の夏で39歳になり、鍼灸に通うなどのケアもしている。傷めやすいのは腰と首、背中。10代のころはジムに通って筋肉をたくさんつけたが、鍛えすぎると動きが悪くなるので、鍛えるのはドラムを叩くことだけだという。ステージではテンションが上がるが、終わると、いつもの安定した自分に戻り、深く考えすぎないようにしているのがいいのかもしれないと話している。
座って叩き続けると尻もこるため、愛用のマッサージガンを持ち歩き、楽屋でも使い、寺岡呼人らに貸すこともある。自分には合っていて、使った後の揉み返しもないと感じているが、合うかどうかは人によると考えている。横浜の公演では、寺岡も背中まで届く大きなL字状のマッサージガンを持参しており、青山はその大きさに驚いた。成田昭次は振動が苦手だという。
ひげの脱毛をしていて、肌が「トゥルトゥル」になると勧めた。ミュージシャンはスタジオにいることが多く、野外のライブも少ないので、日に焼けないという。
ゴールデンウィークは「なんだかんだライブをしてることが多かったですかね」と話した。検定の話では、自分は「全く勉強に無縁で何にもしてこなかったんで」と話した。
115万円で落札されたうまい棒の現代美術味に関心を示し、その価格でスナックを食べると手が震えそうだと表現した。
ドラムスタイル
青山英樹は主にツーバスドラムセットを使用。ドラムセット構成は以下の通り:
- 2バス、3タム、2フロア(多点仕様)
- チャイナシンバルを3枚セッティング
- クラッシュシンバル類は若干高め、エフェクトシンバル類は少なめ
スネアを重く叩き、過酷なツーバスペダルを駆使しながら全体のパワーを高める特徴を持つ。この重厚感と安定感がロック音楽における「バックビートの基盤」として機能するとされている。
父・青山純
青山英樹の父・青山純(1957年3月10日 – 2013年12月3日)は、日本を代表するドラマーである。
青山純は山下達郎のレコーディングやライブの固定ドラマーとして知られており、1978年から1990年代にかけて約20年間にわたり日本の音楽シーンを支えた名手。竹内まりや、B’z、プリンセスプリンセス、THE SQUARE(T-SQUARE)、杉真理らのサポートを務めた。
広いレコーディング経験として、青山純は2000年から2013年にかけてMISIAのライブを継続的にサポート。同時に、1980年代後半の男闘呼組のレコーディングにも参加し、複数の楽曲でドラムを演奏していた。Rockon Social Clubの高橋和也は、インタビューで「男闘呼組の時代には、彼(青山英樹)のお父さんである青山純さんとは、レコーディングで一緒にスタジオセッションしている」と証言している。

2013年12月3日、肺血栓塞栓症により56歳という若さで急逝。山下達郎は故人の訃報直後のライブで、青山純への哀悼をラジオ番組『SUNDAY SONGBOOK』で特集「極私的、青山純 追悼」として放送した。
青山英樹は父親の死について、2022年12月3日の命日9周年に「あっという間に9年が経ちました。自分がドラムを叩いて居られる事、色々な人と出会えて一緒に演奏が出来ている事、全て父親が繋いでくれて、ミエナイチカラが僕を今動かしていると思います。息子として最高な父親で幸せです。」と綴っている。(B’z「ミエナイチカラ ~INVISIBLE ONE~」の歌詞を引用)
自分がドラムを叩いて居られる事、色々な人と出会えて一緒に演奏が出来ている事、全て父親が繋いでくれて、ミエナイチカラが僕を今動かしていると思います。
息子として最高な父親で幸せです。
#青山純
青山英樹は父の偉大さを、ARMERIAの挫折を経験した後のサポートドラマー時代に再認識。その後のキャリア形成に大きな影響を受けたとしている。
サポート活動
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ラジオ出演
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