男闘呼組の音楽活動には、4人での歌と演奏、カバー曲、自作曲とレコーディングに加え、メンバーがほかの活動で男闘呼組の曲を演奏する機会もある。
音楽
4人の編成と歌い分け
男闘呼組は、踊らずに自分たちで楽器を演奏するロックンロールバンドとして活動した。初期の編曲は、クラシックピアノを学んだ土田一徳が担った。14人での編成は、成田昭次と岡本健一のギター、高橋和也のベース、前田耕陽のキーボードに、サポートのドラムを加えたものだった。4人ともリード・ボーカルをとり、ライブでは1人ずつソロでフルコーラスを歌う場面もあった。高橋は、全員がメインボーカルをとれることをバンドの強みと考えている。2全員が歌い、演奏する姿は、最後の野音公演でもバンドの魅力として評された。

その歌は、声域の違いを生かす歌い分けとハーモニーで作られた。高橋がAメロとBメロ、成田がサビを歌う構成が多く、ユニゾンよりハーモニーを生かし、歌うキーの違いを転調や曲の幅につなげた。演奏でも、短い言葉で場所や音を示すだけで通じる、4人の共通言語があった。34前田は、成田の高い声があるから、高音域までメロディーを作れたと捉えている。「DAYBREAK」の歌い方にも、その声域が生かされた。5サポートを務めた青山英樹も、カラオケでは特に成田のパートのキーが高く、歌えないと感じている。6

声の重ね方には、四声のほか、裏声、地声、英語のささやくようなコーラスもあり、ささやくパートは前田が担うことが多かった。7「TIME ZONE」では、前田はコーラスと、ボイスチェンジャーを使った冒頭の声を担当した。8前田が歌う「CARRY ON」には、ほかのメンバーとは違う色合いの曲を入れたいという意向があった。成田も、前田にしかできない世界観があると捉えている。9

成田は、自身のソロ曲「パズル」を初めて聴いた時から、男闘呼組の4人で演奏すればもっとよくなると考えていた。『音楽の日』で新しい曲も演奏したいと望み、この曲を提案した。ほかの3人は初めはイメージを持てなかったが、スタジオで合わせると、自分のものにしようと集中して取り組んだという。104人で歌った時には、パートを振り分けることで各人の人生が歌に重なり、高橋は歌い分けとコーラスこそ男闘呼組の持ち味と考え、成田は皆で歌ってようやく曲が完成したと感じた。11

「DAYBREAK」の全編にわたるハーモニーには、洋楽からの着想もあった。岡本は、アンディ・テイラーの「アイ・マイト・ライ」を聴き、蛎崎広柾に最初から2人のハーモニーで歌う形を提案したと振り返っている。12

歌を支える演奏と音色
デビューのころ、メンバーは譜面を読めず、編曲された曲のカセットテープを耳で覚えて練習した。高橋は、一流のスタッフが作る曲の高い水準に、必死に追いつこうとしていたと振り返っている。
全員が歌うアンサンブルを、高橋は、甲高いベースの音にならないよう指でまろやかに弾いて支えた。13音色の作り方もそれぞれ異なり、若いころの成田はレスポールのリア(ブリッジ側)のピックアップをよく使い、前田はデビューのころから「Jump」のようなシンセサイザーの音色を追求していた。14前田は「CARRY ON」のライブでショルダーキーボードを持って前へ出た際、接続するコードが抜け、音が出ないまま弾き続けたこともあった。歌いながら弾く演奏には、楽器だけを弾く場合とは違うニュアンスがあり、青山は歌への運び方も学びになったと話している。テレビの生放送では、成田は「TIME ZONE」の難しいアレンジと速弾きを歌いながら演奏し、当時を「目が血走ってる」と振り返った。
音を合わせる楽しさは、演奏を続ける支えでもあった。岡本は、合宿所で成田に教わり、見よう見まねでギターを弾き始めた。仲間と一緒に音を出す楽しさと相性のよさが、楽器を続けられた理由だと考えている。成田自身も演奏を学び直し、男闘呼組時代には調弦のメーターが合っていてもライブやレコーディングで不協和音を感じることがあったが、のちにNOBODYとの制作で、弦を押さえる力が強すぎると音程が上がることを教わった。後年には、スコアブックで弾き直し、忘れていたことも思い出したいと考えている。
再始動で重ねた音と声
再始動のライブでも4人の演奏をサポートメンバーが支えた。『男闘呼組 1988』では青山英樹がドラムを務め、2022年12月の名古屋・大阪公演では平山牧伸が担当した。『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』など再始動後のライブでは、主に青山と、長年GLAYのサウンドを支えてきたToshi Nagaiが交互にドラムを務めた。青山はライブのサポートのほか、レコーディングにも参加している。高橋は青山の若いエネルギーに後ろから押され、バンドが若返ったように感じていた。
27年ぶりに4人で音を合わせた2020年の名古屋のセッションで、成田はほかの3人の声量と体力に圧倒された。2022年の再始動時のリハーサルでも、舞台を続けてきた3人の声量が昔より大きくなり、特に高橋のパワーに驚いた。『男闘呼組 1988』の公演を終えた成田は、個性の異なる4人が集まる力を何ものにも代えられないと感じた。高橋は、4人固有の音楽の世界の根底には、技量だけでは説明できない友情があると考えている。
その音楽には、硬派なロックという印象と、歌の幅が併存していた。Real Soundの筆者は、「明日への暴走」「TIME ZONE」やライダース、リーゼントから、男闘呼組には硬派なロックの印象を持っていたと述べている。一方、高橋は、若いころからアカペラやバラードも演奏し、初期にはポップスとハードロックが融合していたと捉えている。その持ち味を受け継ぎ、進化させた音をRockon Social Clubのデモに感じたという。寺岡呼人は再始動のライブの音・照明・映像と、古い曲が古びないことを評価し、10代から人を楽しませてきた経験が、その後のRockon Social Clubの武器になったと考えている。男闘呼組が大好きだという今井翼は、曲「秋」をイントロからかっこいいと評し、季節の秋から男闘呼組を連想すると語っている。
目指したバンド像
洋楽の音作りを取り入れた「Stand Out」について、高橋和也は「ハードロック路線の第一号みたいな曲」と位置づけている。目指したのは、映画『トップガン』の主題歌、ケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」のような音だった。シンセサイザーの壮大な響きからギターが入る構成で、成田は、この曲までは歪んだギターが前面に出ることはあまりなかったと振り返っている。
男闘呼組の音楽には、メンバーが持ち寄った異なるルーツがあった。成田は、前田と岡本が持ち込んだBOØWYなどの邦楽、野村義男ら先輩から自分が教わった音楽、PINK CLOUDのルイズルイス加部やシド・ヴィシャス、カントリーなどの高橋のルーツが混ざり合って、男闘呼組の音楽になったと捉えている。自分も、Princeやマイケル・ジャクソンのように、名古屋で自分の好みだけを聴いていたら出会わなかった音楽を自然に吸収したと振り返っている。成田が上京後に吸収した音楽の例として、前田はマドンナの名も挙げている。前田も、結成後に好みが邦楽から洋楽のハードロックへ変わった。成田は、男闘呼組の土台もハードロックだと考え、ギターのリフで始まる「ROLLIN’ IN THE DARK」を、憧れた音楽が自分たちの様式になった原点の一つと捉えている。
演奏の目標となったのは、先輩のバンドや海外のアーティストの実演だった。事務所で初めてのバンドのように語られることも多い男闘呼組だが、その前から野村義男がギタリストのTHE GOOD-BYEがあった。 デビュー前にそのレコーディングを見学した成田は、演奏のうまさに「俺たちもこうならなきゃいけない。ここまで辿り着かなきゃいけない」と衝撃を受け、メンバーも同じことを感じたと思うと振り返っている。多忙なデビュー前後にも、メンバーはボン・ジョヴィやシンディ・ローパーなどの来日公演によく通い、1988年12月には、岡本が成田を誘って中野サンプラザでガンズ・アンド・ローゼズの初来日公演を見た。この公演は高橋も一緒に3人で見た。成田だけでなく全員がガンズ・アンド・ローゼズに魅せられ、岡本はアクセル・ローズのボーカルを好んだ。成田にとって、海外のアーティストのライブをメンバーと見て体験を分かち合えたことも、大切な思い出だった。高橋も、若いころからHOUND DOG・レベッカ・聖飢魔IIのライブを見て、追いつき追い越したいと活動していたと振り返る。
4人はライブを一番楽しい仕事とし、全国を回りたいと望み、始めから終わりまで全力で演奏する姿と演奏のうまさを評価された。初期のライブでは、東京厚生年金会館を定番の会場としていた。成田はライブ中心の活動を望み、岡本はステージを人に任せず自分たちの意向で決め、高橋は観客といつも一緒にいるためにライブを行うと考えた。成田が目指したのは、技術だけでなく、聴いて見てエネルギーが伝わる「かっこいいバンド」だった。高橋も、個性がぶつかり合う中で男闘呼組の趣向が明確になり、不器用でも信念を貫きたいと語っている。
ライブの曲目の決め方については、岡本と成田の記憶に違いもある。2026年5月10日の『Go! Go! Rockon!』で、岡本は、活動休止前の曲順は主に自分と高橋が決め、その中で成田が難しい曲などを断ることがあったと振り返った。成田は、自分にそれほどの主導権はなかったと思うと話している。
新たな音への関心は、ツアー中にも広がった。楽屋でエリック・クラプトンのアルバム『アンプラグド』のサンプルのカセットを皆で聴き、全員がアコースティックギターにも興味を持ち始めた。同作はMTVで放送されたアコースティックライブを作品にしたもので、成田は自身の番組『成田昭次のRockon The Knight』の「ギタリスト列伝」で、「いとしのレイラ」のアンプラグド版を選曲している。
一方、アイドルがバンドをすることへの反発に対し、成田は、事務所を介した出会いでも、自分たちの意思でバンドを組み、喧嘩し笑い合ってきた点は、同級生で組んだバンドと変わらないと考えていた。後年、成田は、音楽を目指す同世代のバンドとはエンターテインメントの仕事への入り口が違ったと振り返っている。当時の事務所にはロックバンドとして認められ、ライブも行っていた一方、世間からはそのように見られにくかったともいう。寺岡呼人は、入り口が違っても音楽好きなところは変わらず、一緒に音を出せば皆がバンド小僧へ戻ると捉えている。高橋はまた、男闘呼組からRockon Social Clubへ、愛と平和の精神を受け継ぐグループだと考えている。
カバー曲
カバー曲は、初期の練習からライブまで演奏の一部だった。1985年、各人のレギュラー番組の合間に集まっていた4人は、成田の選曲でマイケル・シェンカーの「アルサー」を練習した。同年の少年隊のコンサートでは、ザ・ローリング・ストーンズの曲を3、4曲メドレーで演奏した。GSのメドレーも演奏し、『アイドル花組おとこ組』ではビーチ・ボーイズの「サーフィンU.S.A」などもカバーした。デビュー前からBOØWYの曲をカバーし、ライブでは「DREAMIN’」も演奏した。ナイト・レンジャーの「Sister Christian」もカバーしたが、CDにはなっていない。矢沢永吉の「バイ・バイ・サンキュー・ガール」もデビュー前にカバーした。成田は、そのころから高橋とともに矢沢やNOBODYを好んでいたと振り返っている。浜田省吾の「MONEY」では高橋が歌った。
洋楽は初め、自分たちで日本語の歌詞を書いて歌い、ラットの「ボディ・トーク」や、1988年1月のライブでのジョン・クーガー・メレンキャンプの「ペーパー・イン・ファイアー」も、その形で演奏した。やがて原曲の歌詞とキーで歌うようになり、カバーは成田と高橋にとって、バンドの基本であり原点となった。加工を感じさせないエレキギターの音や、床のきしみ、歌のブレスまで入った生々しい音に憧れ、日本でもそうした音を録れないか研究していた。
ソロ曲にも、それぞれの好みが出た。岡本はシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」やザ・カルトの曲を、前田はブライアン・アダムスの「ヘブン」を歌った。
カバー曲を通じて、ほかのバンドのメンバーと共演することもあった。ロサンゼルスで出会ったX JAPANのメンバーとは、帰国後も雑誌の対談などで交流した。ニッポン放送の公開ライブでは、4人とTAIJI・Toshlがガンズ・アンド・ローゼズの曲をセッションし、hideはこの時には来られなかった。
洋楽のカバーはアンコールの定番にもなり、20歳ぐらいのころの成田はレッド・ツェッペリンの「ロックン・ロール」を必ず歌い、「Purple Haze」や「Born to Be Wild」もアンコールの定番だった。原曲と同じキーで歌い、ドラムのイントロに全員で合わせて入るのに苦労したが、初代サポートドラマーの小関純匡(コセやん)はジョン・ボーナムが大好きで、そのイントロを完璧に叩けた。高橋がレッド・ツェッペリンを聴き始めたのも、男闘呼組を始めてから成田がその曲を歌っていたことがきっかけだった。成田はラジオで「男闘呼組のライブなのに自分達の曲やらないで」、「Zeppelinの曲やっちゃってる」と笑い、「男闘呼組の曲1つもやってない、アンコール」と振り返っている。高橋も、カバーで終えるアンコールをファンが喜んでいたと話している。デビュー前から子供ばんどの版をカバーした「Summertime Blues」はダブルアンコールの定番で、前田は、演奏するまで観客が終わらせてくれないようだったと振り返っている。
自作曲とレコーディング
デビュー前からの曲作り
男闘呼組は、デビューの前から自分たちで曲を作った。1987年の『Made in U.S.A.』の「DETARAME・クレイジーナイト」「勝負!」は、作詞・作曲とも男闘呼組の名義である。「勝負!」は初めて作詞・作曲した曲で、テレビでは初め「FICTION STREET」として歌い、のちに詞と題を変えた。2曲ともCDにはなっていない。「ROLLIN’ IN THE DARK」も男闘呼組の作曲である。自作曲を増やすことは、自分たちを否定する人をねじ伏せようとする、世間への反抗でもあった。『イカ天』が人気を集めたバンドブームの中、成田は、ロックバンドとして自分たちで曲を作れることに、少しプライドもあったと振り返っている。
デビュー当時のシングルについて、高橋は1位にならなければならないという重圧を振り返り、前田も売れなければならないという思いがあったと語っている。一方、岡本と成田には、売るのはレコード会社の仕事で、自分たちは歌と演奏を担うという感覚があった。作家から提供された曲を演奏するところから、自分たちで詞曲を作り、セルフプロデュースする意欲と苦しみへ進んだと、高橋は捉えている。3か月ごとのシングル発売に合わせるより、自分たちで練り上げ、納得してから発表する姿勢を貫いた。
自作曲には、その時の感情や周囲の出来事も表れた。「自分勝手」「赤ちょうちんでくらせ」「ROLLIN’ IN THE DARK」などには、自分たちの環境への怒りをストレートに吐き出し、高橋は曲作りに救われたと感じている。岡本健一も、現実のニュースから受けた刺激がそのまま歌に出たと考えており、湾岸戦争のころに「ANGEL」の歌詞を変えて歌ったことを、その例に挙げている。

レコーディングの協力者と全曲自作への広がり
レコーディングには、プロデューサーやスタジオミュージシャンも関わった。蛎崎広柾(HIROMASA KAKIZAKI)は、アルバムと、主演映画『ロックよ、静かに流れよ』の音楽のプロデュースを担当した。男闘呼組のロンドンでのレコーディングでは、演奏は全員で行い、歌は各自が別に録った。「雨に抱かれて」では、蛎崎から何度も書き直しを求められた高橋が、歌入れの前夜、ホテルの窓を伝う雨を見て詞を仕上げた。『参』の「狂おしく むなしく」もロンドンでレコーディングされた。同じ『参』の「BACK IN THE CITY」では、青山純が高橋とレコーディングで共演し、後に息子の青山英樹も、再始動した男闘呼組を支えた。高橋は父子との共演を運命的な縁と感じ、青山英樹も同じアーティストに親子で関われることを光栄に思っている。
4人で曲を持ち寄って作る方法は、4枚目の『I’m Waiting 4 You』で、全曲の作詞・作曲・アレンジにメンバーが携わる形へ広がった。河口湖でアレンジの合宿をし、都内のスタジオでは4人一緒に音を出して録り、分かりやすいPOPな作品を目指した。高橋は、その制作で4人の個性を再発見し、自分たちのサウンドが見えてきたと感じた。岡本は4人それぞれの成長からバンドも大きくなると考え、次のアルバムには遊びの要素も入れたいと望んだ。
高橋は、15歳くらいからボーカルトレーナーとして一緒にいた蛎崎を「僕らの育ての親」と呼び、岡本は、メンバーが蛎崎のもとに集まって曲を作り、持ち寄った曲を出し合い、コーラスを練習したと振り返っている。原曲を聴き直した高橋は、蛎崎と編曲者の松下誠のコーラスがシンセサイザーのように入り、男闘呼組のサウンドで重要な役割を担っていたことにも気づいたという。前期と中期以降で音が変わっても、通底するものがあると捉えている。
三部作と個々の音楽の追求
次の三部作『5-1…非現実…』『5-2…再認識…』『5-3…無現実…』では、メンバー自身が多くの曲を作り、各自が持ち寄った曲をメンバーで演奏し直して仕上げる方式になった。成田にとっては、3か月続けてアルバムを出すことも、それぞれで曲を作り、ソロの曲を書くことも、やりたい音楽性を追求する試行錯誤で、実験的な取り組みだった。別々にレコーディングしたり、親しいミュージシャンを招いたりしたことも、成田は、仲の悪さや喧嘩というより、個々の音楽を追求する流れだったと振り返っている。1991年末には曲を絞るのに苦労するほど多くの曲ができ、リハーサルをしながら翌年1月初めのレコーディング入りを見込んでいた。制作中の前田は、自分の3曲を入れて歌うとし、2曲は自作、1曲は舞台演出家のマキノノゾミに作詞を依頼していた。制作では約60曲から36曲に絞り、前田が「5の1」「5の2」「5の3」と名付け、岡本が各作のイメージに合わせて副題を付けた。高橋が制作のテーマに挙げたのは「今」だった。友人たちとのセッションを経ても4人で音を出したいと感じ、集まる喜びと男闘呼組のよさを再認識したという。
岡本は、男闘呼組に30曲ほど持っていっても音楽性が違うとしてほとんど使われなかったことが、自分のバンドを作るきっかけになったと振り返る。一方、男闘呼組を念頭に作った曲はシングルになったという。三部作の「あの娘は言う」「私と自分」「旋律」「推察の最中で」には、岡本が1991年に結成したADDICT OF THE TRIP MINDSの本村隆充(ドラム)・福場潤(ギター)と、KOHJI TARUI(ベース)が参加し、編曲は岡本と参加メンバーの名義(KENICHI・HIS UNIT)になった。3人は高橋が歌う「そろそろやっか」でも演奏した。「インディアンの丘で」も、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」から着想し、ギター1本で歌っていた曲を仲間のバンドMARMALADE SKYがレッド・ツェッペリンのようにアレンジし、成田がイントロを考えて形にした。演奏以外でも仲間と作品を作り、「みんな仲よし」のミュージック・ビデオは、サポートドラマーの平山牧伸の家が経営する幼稚園で、普段の開園中に園児や保育士と撮影した。
個々の曲作りは、その後も続いた。1993年初め、岡本は舞台『品川心中』の公演期間中にも曲作りを進め、3〜4月のレコーディングを見込んでいた。前田も舞台の稽古前に次作のための2曲を作り、自分で歌う意向を持っており、三部作の次は1枚のアルバムを構想していた。『ロクデナシ』には、ブルースハープの八木のぶおも参加した。成田が三部作から続く音楽の追求の一つに挙げた「TOKYOプラスティック少年」は、「ジャニーズ A GO GO」を打ち込みにして詞を変え、成田がアコースティックギターを生で重ねた曲だった。
4人で曲を作る試みは、再始動を準備する時期にもあった。「HEAVY LOVE」の原型は、再結成前に4人がスタジオで作っていた曲だったが、再結成後は既存の男闘呼組の曲を優先したため、しばらく取り上げられなかった。高橋が改めて寺岡呼人に渡し、寺岡の編曲を経てRockon Social Clubの曲になった。
曲への思い
若いころの曲を50代で演奏し直すことは、メンバーにとって、曲と自分たちの変化を知る機会になった。「Stand Out」「DAYBREAK」「TIME ZONE」「秋」について、成田昭次は、大人びた曲にようやく自分たちの演奏が追いついたと感じ、若いころに背伸びして演奏した曲を財産と考えている。前田耕陽も、難しい曲に仕事として取り組んだことで、リフを弾きながら歌う力などを鍛えられたと捉える。成田は、昔の映像と今の自分を比べると、若いころは無理をしていたのかもしれず、35年を経て素の自分に戻れたと感じている。その若い姿から力や勇気をもらうとともに、長年応援したファンと再始動後も気持ちを分かち合えることを活動の糧としている。雑誌の取材などで重ねた経験も再始動につながり、1人では越えられないことも、メンバーだから乗り越えられたと考えている。
演奏し直すには、難しさもあった。10代、20代の曲には、速いテンポと複雑なアレンジ、リフを弾きながらの歌唱や、リードギターからすぐ歌へ戻る構成が多く、成田には大きな課題だった。当時の感じを再現したいメンバーもいて、ほかのメンバーがわりと忠実に弾く中、成田は「DAYBREAK」「秋」「TIME ZONE」を50代の自分にできる形にアレンジした。メンバーは「好きに弾いていいよ」と任せてくれたという。成田は、曲の複雑さに加え、転調も演奏の難しさに挙げている。「MY LIFE」は、4人と青山英樹・Devin Kinoshitaの6人でリハーサルを重ねても音数の多さから再現が難しく、再始動のライブでは演奏に至らなかった。再録に取り組んだ『WARRIORS』では、成田は、背伸びした詞を同じキーで歌いながらも、再始動後のメンバーの声は当時より太くなったと感じている。この再録には新しいアンプシミュレーターも使われ、成田は、左右の伴奏ギターを聴き分けられ、歪んだ音にもそれぞれの個性があると感じた。
歌い直すことは、若いころの声のよさを見直す機会でもあった。高橋和也は、歌い直すと「背筋が伸びるような気持ち」になり、「男闘呼組の楽曲って大人っぽくて」、若い声には「その当時にしかない良さもある」と考えている。成田も「20代10代の頃やってた曲を50代になって再挑戦」することで、当時見えなかったものが見えてきたという。2人が思いを語ったのは、「秋」「追憶の挽歌」「CROSS TO YOU-雨-」「RESISTANCE」「DAYBREAK」「Midnight Train」などで、高橋は、いいバラードが「男闘呼組の持ち味だった」と捉えている。成田は、世代を越えて違和感なく歌える詞の世界に、デビュー前から詞を書いた大津あきらと、デビュー曲からMARK DAVIS名義で関わった馬飼野康二の影響を感じている。前田もメンバーはバラード好きだとし、自分たちでは書けないような甘い詞を提供されると、新鮮に取り組めると考えている。
一方、作り手が演奏したい曲と、聴き手の希望は一致するとは限らなかった。男闘呼組の曲は全部好きだという前田は、「きっとそこから」を特に推すが、セルフカバーのリクエストでは、ファンが聴きたい曲との大きな隔たりを感じた。再始動で演奏した曲に加え、その時に聴けなかった曲のカバーを望む人もいるのではないかと考えている。再始動の選曲に入らなかった「明日への暴走」は、岡本健一も約40年聴いていなかった曲だった。
メンバーのほかの活動での演奏
男闘呼組の曲は、4人がそろうRockon Social Clubだけでなく、メンバーそれぞれのバンドや個人名義の公演でも受け継がれている。Rockon Social Clubの2023年5月6日の初ワンマンも、新曲と男闘呼組時代の自作曲を織り交ぜた公演だった。前田耕陽は、その後の『FOREVER CALLING -Still Rockin’-』でも男闘呼組の曲を演奏すると案内し、メドレーの可能性も挙げた。多様な音楽と客席・ステージの一体感を魅力とし、一緒に体を動かして楽しむよう勧めている。テレビでも、Rockon Social Clubが2025年11月13日のNHK総合『SONGS』で「TIME ZONE」「DAYBREAK」のメドレーを披露した。
成田昭次・寺岡呼人・青山英樹によるNARITA THOMAS SIMPSONは、男闘呼組の曲を、自分たちの曲や成田のソロ曲と組み合わせて演奏している。成田商事からの改称を発表した『BREAK UP SHOW 2023』と、初の単独公演『1st LIVE』でも、成田が歩んできた複数の名義の曲を取り上げた。「ROLLIN’ IN THE DARK」も『TOUR 2024』と『人生はとんとん Billboard Live』で演奏され、3人の活動の中でも歌い継がれている。
岡本も、男闘呼組で作った「あの娘は言う」「私と自分」「旋律」「推察の最中で」「無題」「幻影」を、自身のバンドADDICT OF THE TRIP MINDSで演奏してきた。「私と自分」「推察の最中で」は、1993年のCLUB CITTA’公演の映像にも残る。
成田の個人名義の公演にも男闘呼組の曲は受け継がれ、『CLUB55 WHITE PARTY』では「I LOVE YOU」を歌った。また、NARITA THOMAS SIMPSONの『人生はとんとん Billboard Live』と成田個人名義の『SHOJI NARITA des Noir』には岡本がゲストで加わり、「Midnight Train」を披露した。曲はそれぞれのバンドや個人のレパートリーになるとともに、元のメンバーが再び一緒に演奏する機会にもつながっている。
- 『MYOJO』1985年9月号 146ページ「男闘呼組 練習スタジオ生態報告」 — 土田一徳の加入、キーボードの2人、前田のドラムスへの転向、高橋のベース、リーダーの成田。 ↩︎
- 2023年7月29日放送の『ROCKON TIMES』。 ↩︎
- 「またミュージックライフが始まりましたね」成田昭次、ダブルDJ初回に語った音楽復帰と男闘呼組の今(2022.10.6放送) ↩︎
- 男闘呼組 再結成秘話「昭次のメアドが神のお告げのように…」(婦人公論.jp、2023年5月2日) — 短い言葉で演奏の場所や音が通じる4人の共通言語と、声域の違いを生かした歌い分け・ハーモニー。 ↩︎
- 2025年8月24日放送の『日曜の午後は耕陽を聴こうよー!』。 ↩︎
- 成田昭次、男闘呼組時代を振り返り「あん時は憑依してた」――青山英樹とのラジオで語る35年の軌跡「#ロックオンザナイト」#088(2025.7.26放送) ↩︎
- 成田昭次「昔の自分に本当にしごかれてる」 前田耕陽と舞台の声の出演、セルフカバー録音を語る(2026.05.24 放送) ↩︎
- 2025年8月10日放送の『日曜の午後は耕陽を聴こうよー!』。 ↩︎
- 2023年2月23日放送の『TOKYO MUSIC SHOW』。 ↩︎
- 2023年7月1日放送の『ROCKON TIMES』。 ↩︎
- 男闘呼組、こんな夢も見られるのだから(3)4人で出した結論(日経クロストレンド、2023年4月5日) — 「パズル」の歌い分けとコーラス、4人の人生が歌に重なること ↩︎
- Rockon Social Club成田昭次がギター沼に! 50代で挑んだ男闘呼組30曲セルフカバー!「東京に出てきてこんなに苦しかったことないって」(双葉社 THE CHANGE、2026年10月29日、文:谷岡正浩。4〜7ページ) — 蛎崎広柾の指導とコーラス、前期と中期以降の音の共通性、カセットでの練習、「DAYBREAK」「Stand Out」の音作り。 ↩︎
- 2023年8月19日放送の『ROCKON TIMES』。 ↩︎
- 2025年2月1日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎

