男闘呼組の結成とデビュー前

男闘呼組の結成とデビュー前は、男闘呼組のメンバーがバンドとして集まってから、1988年8月24日にレコードデビューするまでの歩みである。

目次

結成とデビュー前(1984〜1988年)

メンバーの出会いと2人組の案

1984年の夏、ジャニー喜多川は、ギターを弾くと聞いた成田昭次にリードギターを勧め、その後、未来のメンバーを1人ずつ引き合わせていった。ドラムをしていた高橋和也(当時は高橋一也)との出会いも、その一つだった。合宿所の一室で『風の谷のナウシカ』のビデオを見ていた成田と、紹介された高橋は、どちらも相手の第一印象が最悪だったが、数時間後にはジャニー喜多川に連れられて渋谷のスタジオに入った。高橋がセックス・ピストルズを、成田がマイケル・シェンカー・グループを弾き、2人のセッションが始まった。

しばらく後、岡本健一がジャニー喜多川に言われて成田へ挨拶に来た。成田は名古屋弁で「なんじゃおめえ?」と言ったが、2人は合宿所で一緒に暮らし、最も長く一緒にいる仲になった。1楽器の経験も興味もなかった岡本に、成田は「おまえ、リズムギターやれよ」「指2本でできっから」と勧め、コードから教えた。2男闘呼組は初めから楽器を演奏するバンドとして作られ、楽器の経験がある人が多い中、岡本の参加は、自分のバッキングを弾いてほしいという成田の意向から始まった。リズムギターという役割を決めたのも成田だった。高橋がドラムだけでなくベースも弾けると分かると、成田・高橋・岡本の3人でスタジオに入ることが多くなった。 2人の出会いとギターの始まりは、成田昭次と岡本健一に詳しい。

バンドになる前には、成田と岡本の2人でデビューする案もあった。岡本は、2人でカラオケをするうちに、ジャニー喜多川が成田の歌のうまさに気づいたのではないかと考えており、組むなら成田がメインボーカルだったという。しかし、2人組といえば狩人くらいしか思い浮かばず、2人とも嫌だと話した。ロックをやりたくてギターを始めた成田はバンドを望み、岡本には、2人組でのデビューを避けるためにバンドを作った記憶がある。ジャニー喜多川は、岡本を田原俊彦、成田を近藤真彦にたとえていたと、岡本は振り返っている。3

その仲間となる前田耕陽の参加は、1984年冬、クラスの女子が無断で送った履歴書がジャニー喜多川の目に留まったことから始まった。招かれた田原俊彦のコンサートの後、成田・岡本・高橋の写真を見せられて「今度、このメンバーでグループを作ろうと思ってる」と誘われると、「やります!」と答えた。4

「東京」から男闘呼組へ

「東京男組」高橋一也、岡本健一、成田昭次

こうした演奏の集まりは、1985年に「東京」という名前を得た。ジャニー喜多川は、成田・岡本・高橋を含むジュニアの数人を集め、「ユーたちで『東京』というグループを作る」と宣言し、名古屋出身の成田は「東京なんとかじゃなくて、グループ名、東京だけなんですか?」と聞いた。年の初めの編成は、高橋一也(ドラムス)・守屋二郎・遠藤直人(サイドギター)・岡本健一(サイドギター)・成田昭次(リードギター)の5人だった。5「東京」は、明治製菓の「アーモンドゴールド」の CM と、その歌「誠 ほれたぜ」にも出演した。歌の作詞は野村義男、作曲は曾我泰久で、東山紀之は歌のハーモニーをほめていた。成田と岡本がハワイから帰ったその日にも練習し、仕事で同行できなかった高橋は、2人の旅の話に加わりながら、自分たちの音と歌を早く聴いてほしいと意欲を示した。6

メンバーの入れ替わりを経て、グループは1985年3月に「男闘呼組」へ改名した。初めは「男組」にしようとしたが、同名の少年漫画が以前に連載されていたため、ジャニー喜多川が漢字4文字の「男闘呼組」を考えた。名前には「男は闘いを呼ぶ」という意味が込められ、改名時のメンバーは、新しく加わった前田を含む6人だった。前田の担当はキーボードだった。7前田は「東京」のころは参加したりしなかったりだったが、6人ほどの「東京男組」のころには加わり、すでに『トライアングル・ブルー』にも出演していたと振り返っている。8

この年の6人は、成田・前田・岡本・高橋・遠藤と、ベースの守屋だった。都内の旅館を借り切って行ったバンド合宿には、少年隊のミュージカルに参加していた遠藤を除く5人が集まった。9その後、守屋が大学受験のために離れると、高橋が自ら後任を引き受け、ドラムからベースへ移った。高橋には、後方のドラムよりも、ギターやベースのように前に立ちたい気持ちもあったという。10前田はキーボードからドラムへ移り、キーボードには土田一徳が加わった。成田・岡本・高橋・前田・遠藤・土田の6人編成となり、リードギターの成田がリーダーを務めた。遠藤と土田が2人でキーボードを弾き、アレンジは土田に任せていた。1112

練習と最初の公演、合宿所での時間

練習は、個人のテレビ出演などの合間を縫って続いた。成田・高橋・前田・岡本の4人は、渋谷のライブスタジオで、夜10時から朝5時まで週3回練習し、1985年の夏には自分たちのコンサートを開きたいと望んでいた。成田は、音楽好きの仲間による部活のような出発から、本格的な活動が決まると、渋谷のヤマハのスタジオで夜10時から朝6時まで練習するようになったと振り返っている。前田も、昼は学校、夜は外から鍵をかけられたスタジオで練習する、デビューまで約4年の生活を覚えている。1314

演奏の場は、少年隊のコンサートにも広がった。15成田は、改名のしばらく後に、自分と岡本・高橋の3人にサポートメンバーの前田を加えた4人で活動を始めたと振り返っている。錦織一清に「後輩の男闘呼組!」と紹介され、ザ・ローリング・ストーンズの曲を演奏し、いきなり万単位の観客を前にした。岡本にとっては「楽しいに決まってんじゃん、そんなの」という体験だった。一方、成田・高橋・岡本の3人だけで活動が続いたころには、明治製菓のチョコスナック「おばけランド」の CM にも3人で出演し、前田が正式に迎え入れられたのはその後だった。

4人での活動がまとまりを得た節目が、1986年のファースト・コンサートだった。『アイドル花組おとこ組』で司会を務める一方、4月27日に名古屋で開いた公演を、岡本は、ばらばらだった4人が初めてひとつになった時、前田は、自分の居場所ができた時と振り返る。成田はジャニー喜多川に泣きながらほめられたと話している。1617初期のライブにはそれぞれのソロコーナーがあり、成田と高橋が2人でブルース・ブラザーズのように踊ることもあった。18前田はファースト・コンサートで2曲ほど踊り、バク転もしたと振り返る。前田のいなかった「おばけランド」の CM について、成田は3人の中で自分だけ踊りがずれていて恥ずかしいと笑っている。19同年9月末には青山劇場で5日間のライブを開き、岡本はソロを全部成田に任せた。20

公演や練習をともにする4人には、合宿所で仲間と過ごす時間もあった。岡本のドラマの共演者・西川弘志が遊びに来ることもあり、メンバーと映画『死霊のはらわた』を見て、全員が怖い映画だと感じた。17歳で母を亡くした岡本が合宿所へ戻った時には、男闘呼組のメンバーと少年隊の3人が、メロンを食べながら励ました。21岡本は、17、18歳のころは仲間が集まる楽しさから騒がしくなり、ホテルの部屋や会場を荒らしたとも振り返っている。その後には、四国に来るなと言われたこともあったという。22

雑誌の取材と衣装

ステージやテレビでの活動と並んで、アイドル雑誌の取材も多かった。メンバーはアイドルの野球大会にも参加し、『明星』1985年9月号の写真クイズに登場した。この試合の様子は、7月26日に朝日放送系で放送すると告知された。23成田は、5〜6社ほどから取材され、公園でも写真を撮り、1日に3社、時には週の前半を通して撮影を受けたと振り返っている。『POTATO』にはメンバー全員が長く世話になったという。2425古いシールの写真を見た成田は、高橋と岡本が16歳、自分と前田が17歳ごろと見立て、「OTOKO-GUMI」という表記をおしゃれだと感じた。26 『平凡』1987年2月号付録の写真では、4人は「58」のワッペン付きの白いカーディガンをそろえ、成田と高橋は青、岡本と前田は赤のストライプのシャツを着ていた。27 『明星』の撮影では真冬の富士山で雲海を背景に写真を撮り、岡本と高橋は強風と寒さ、こぼれた温かいココアがすぐ凍ったことを覚えている。28高橋は、河口湖で泳ぐなど、過酷な撮影も経験したと振り返っている。29

1987年2月号「平凡」付録

4人の衣服や髪形には、好きな映画の影響も表れた。成田は、破れたジーンズや袖を切ったTシャツ、リーゼントの姿には映画『アウトサイダー』の影響が大きく、4人でまねていたと考えている。テレビ放送で主人公の声を担当した岡本を、成田・高橋・前田の3人は羨んでいたという。30ジャニー喜多川も、「イカれてる」という言葉がはやったころ、「とにかく不良なら不良なほどカッコいいんだよ」「ジェームズ・ディーンになれ」と言い、高橋は、この言葉がグループの方向を決めたと振り返る。

映像作品と映画が形づくったバンド像

レコードデビューに先立って、映像で楽曲を届ける活動も始まった。1987年8月3日に発売した初めての映像作品『Made in U.S.A.』は、ニューヨークやラスベガスなど、アメリカでのロケと曲を組み合わせた作品で、「TENSION」では空母イントレピッドの甲板で演奏を撮影した。同じ8月、男闘呼組のデビューが「今年こそは」と噂される中、先に「STAR LIGHT」でデビューしたのは光GENJIだった。高橋は「トンビに油揚げをかっさらわれたみたいな感じ」だったが、巨大な正統派のアイドルが現れたことで、自分たちはロックバンドだという立ち位置と目指すスタイルがはっきりしたと振り返る。岡本は、踊りやローラースケートは絶対にやりたくないと思っていたという。

そのバンド像は、初主演映画『ロックよ、静かに流れよ』にもつながった。原作には映画化などの申し込みが16件あったが、どれも実現せず、企画も2年前に一度中止されていた。男闘呼組の4人が決まると、映画の話は一気に進んだ。3132撮影前には軽井沢で5日間合宿し、長野県松本市では、4人が2ヵ月間寝食をともにして撮影した。333435宿泊先の信州会館には登校前のファンが集まったが、4人は裏口を使わず、学校に遅れないよう声をかけて表玄関から撮影へ向かった。

映画に向けて、4人はグループとしてよりも、一人一人が俳優として役作りに全力を注ごうとしていた。36長崎俊一監督は、構えのない自然な4人に役そのものになってもらい、生き生きと魅力的であればという思いで本作を作った。撮影を終えた時には「4人ともマジメで、内容を監督以上に把握してました。彼らと役がうまく溶け合ったと思います」と話している。3738394人は、けんかの場面を殴ったふりをせずに真剣に演じ、セリフも自分たちの言い方に変えた。40高橋は、映画で演技を認めてもらい、その先で自分たちの演奏や作詞作曲も見せたいと考えていた。岡本は、不良役が自分たちの素の姿と重なり、長崎との映画作りで生き方を肯定され、飾らずに進む方向が定まったと振り返る。

共同生活は、4人の関係も深めた。成田は、性格はばらばらでも、意見が対立すれば最後はわかり合え、イケイケの岡本と高橋がアイデアを生み、ブレーキ役の自分と、冷静にルールや秩序を作る前田がバランスを取っていたと振り返る。何でも器用にこなし、ダンスのレッスンで4人の中でいちばん優秀だった高橋、運動神経がよく初めから頼れる上司のようだった前田、とにかく自由人の岡本、「根暗で、すみっこで寝てるみたいな」自分を挙げ、「そんなバラバラの4人だから面白かったんだろうな」とも話している。バック転ができたのは高橋と前田だけだったという。41成田にとって、四者四様でも集まればひとつになり、大きなエネルギーを生む4人だった。42長崎も1993年に、4人が集まる親密な空気が一人一人の力を何倍にもし、周りの人を熱く優しくさせて、映画に特別なムードを与えたと振り返り、そこにグループとしての魅力を見ている。43

映画公開を控えた1988年1月1日には、少年御三家として日本武道館に立った。この公演は、映像作品『少年武道館~少年御三家新春一番歌いぞめ~』と、映画『少年武道館』に収められた。44続いて2月20日には『ロックよ、静かに流れよ』が『少年武道館』との同時上映で公開され、4人そろっての映画初主演を果たした。45岡本は、この映画が男闘呼組の土台となり、レコードデビューにつながり、4人がやりたいことを見つけたと感じている。成田も、映画で演じた4人の関係がその後も続くように感じ、名古屋から上京して3人と出会った自分の体験と物語を重ねている。46作品は、男闘呼組が「キャラクターと熱演で、たしかに「輝いた瞬間」を持つことができた」と評され、男闘呼組は第10回ヨコハマ映画祭の新人賞と、第43回毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞を受けた。映画は第12回日本アカデミー賞の話題賞作品部門も受賞した。47

レコードデビュー直前の公演

レコードデビュー直前の夏には、8月7日に日比谷野外大音楽堂で開いた公演が、初めての野外単独ライブになった。48さらに8月16日〜19日には少年御三家として再び日本武道館で公演し、夏の公演は映像作品『少年武道館Ⅱ』に収められた。

1988 Summer Tour in Tokyo 日比谷野外音楽堂

  1. 岡本健一のインタビュー(音楽と人、2022年3月4日) — 2人でのデビューを勧められた話、お別れ会での再会と2021年の共演、2022年初めの4人の交流、男闘呼組で使われなかった曲の話。 ↩︎
  2. 岡本健一の音楽の原点、ギターとの出合いは成田昭次(双葉社THE CHANGE、2026年1月10日、連載第16回) — 成田に教わったギターと、男闘呼組で楽しく続けられた経験。 ↩︎
  3. 2024年8月10日放送の『成田昭次のRockon The Knight』 — 岡本健一の、ジャニー喜多川の「俺はトシちゃんで、昭次がマッチ」の話。 ↩︎
  4. 『MYOJO』1985年5月号 92ページほか「東京改め 男闘呼組 に決定!」 — 改名と名前の意味、6人のメンバーと新しく加わった前田耕陽。同号では、前田は1983年12月からジュニアのレッスンに通い、1984年12月からグループに参加したとされる。 ↩︎
  5. 『MYOJO』1985年3月号「ジャニーズ・ジュニアから飛びだした噂の新兵器軍団「東京」です。ぼくらの総攻撃開始!」 — 結成中のバンド「東京」の5人と担当。 ↩︎
  6. 『MYOJO』1985年4月号「(岡本健一・成田昭次)ハワイで熱い誓い」 — 「東京」の明治製菓の CF と歌、歌の作詞、ヒガシ(東山)がほめたハーモニー。 ↩︎
  7. 放送100年の紅白特別企画と出演者の歩み(Real Sound、2025年11月20日) — 前田耕陽の加入、男闘呼組の初主演映画。 ↩︎
  8. 2024年9月21日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  9. 『MYOJO』1985年7月号「男闘呼組御一行様」 — 6人のバンドの合宿と、そのメンバー。 ↩︎
  10. 2024年9月14日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  11. 『MYOJO』1985年8月号(87ページほか)「目も音も輝き始めたぞ。」 — 4人の練習と、編成の変化、リーダー格の成田。 ↩︎
  12. 『MYOJO』1985年9月号 146ページ「男闘呼組 練習スタジオ生態報告」 — 土田一徳の加入、キーボードの2人、前田のドラムスへの転向、高橋のベース、リーダーの成田。 ↩︎
  13. 成田昭次「この先もずっと、音楽をやっている姿を見せていけたらと思います」(ananweb、2026年3月15日) — 部活のような音楽の始まりと、渋谷のヤマハで夜10時から朝6時まで続けた練習。昔は2時間の遅刻が当たり前だったのに、再始動後は集合時間の1時間前にそろうこともあるという成田の回想。 ↩︎
  14. 前田耕陽が明かす男闘呼組メンバーとの初対面(双葉社THE CHANGE、2026年2月6日) — グループへの参加、学校との両立、外から鍵をかけられたスタジオでの練習。 ↩︎
  15. 『MYOJO』1985年6月号 117ページ「新番組『サーティーンボーイ』」 — 岡本健一の紹介と、少年隊のコンサートなどでのバンドの活動。 ↩︎
  16. 『MYOJO』1988年6月号(244〜249ページ)「CHAPTER II HAS JUST BEGUN 結成3年、現在進行形スーパー戦闘史」 — 『アイドル花組おとこ組』の司会、1986年4月27日のファースト・コンサートと4人の振り返り。 ↩︎
  17. 2024年9月28日放送の『成田昭次のRockon The Knight』(ニッポン放送)。 — 成田昭次と前田耕陽の、最初のホール公演が名古屋だったという回想と、4人の音楽の好み。 ↩︎
  18. 2024年1月25日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  19. 2023年12月7日放送の『成田昭次のRockon The Knight』 — 成田昭次と前田耕陽の、「おばけランド」の CM とファースト・コンサートの踊りの話。 ↩︎
  20. 『MYOJO』1986年12月号 40・41ページほか「オレが青春だ!」 — 9月末の青山劇場での5日間のライブ。 ↩︎
  21. 岡本健一「偽スカウトを経て中3で芸能界へ。17歳で母を亡くした時は、メンバーや少年隊がメロンで励ましてくれた」(婦人公論.jp、2025年3月4日、関容子) — 合宿所での励まし。 ↩︎
  22. 元男闘呼組・岡本健一 全盛期にあった驚きの“出禁”事情(スポニチ、2023年12月1日)。 ↩︎
  23. 『MYOJO』1985年9月号「アイドル甲子園クイズ PART1」 — 野球大会の写真クイズと7月26日の放送案内。 ↩︎
  24. 2024年10月26日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  25. 成田昭次、男闘呼組時代を支えたアイドル雑誌『ポテト』休刊に感謝「本当に、お世話になりました」(2025.05.31放送) ↩︎
  26. 2024年10月26日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  27. 「人生は50代から」成田昭次、男闘呼組時代の秘蔵写真とジョージ・ハリスンへの熱い憧れを語る(2025.05.03放送) ↩︎
  28. 2025年9月6日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
  29. 「50代の新人バンドです」高橋和也と寺岡呼人、ふわっと始まった Rockon Social Club と初ワンマンの夜(2023.5.6放送) ↩︎
  30. 2025年4月13日放送の『SHACHIHOKO PARADISE』。 ↩︎
  31. 『ロックよ、静かに流れよ』(映画のパンフレット、東宝出版事業室、1988年2月13日発行)21ページ「PRODUCTION NOTES」 — 原作の映画化の話が、男闘呼組の4人が決まって進んだこと。 ↩︎
  32. 『月刊イメージフォーラム』1988年3月号 41〜51ページ「[製作ノート]台詞を即興で考え、欲しい表情を掴まえる」 — 長崎俊一の撮影の記録(企画の中止と再浮上)。 ↩︎
  33. 『BEST FRIEND』(VHS、1987年12月16日発売) — 映画撮影前の軽井沢での5日間の合宿、松本での3週間、40日間の撮影。 ↩︎
  34. 『MYOJO』1988年3月号「ロックよ、静かに流れよ 明星特製オリジナル・グッズを2,505名にプレゼント!」 — 4人の初主演映画、9月24日から約1か月の松本市での撮影。 ↩︎
  35. 『MYOJO』1987年12月号 34〜37ページ「ノリは林間学校なのである! 男闘呼組 映画『ロックよ、静かに流れよ』長期松本合宿」 — 9月24日から約1か月の松本での合宿。 ↩︎
  36. 『ロックよ、静かに流れよ』(映画のパンフレット、東宝出版事業室、1988年2月13日発行)2〜3ページ「男闘呼組 主演」 — 4人そろっての映画初主演。 ↩︎
  37. 岡本健一がサプライズで「不良」と「LONELY…」をギターで弾き語り!(TV LIFE web、2019年5月14日) — 岡本と長崎俊一の、映画が定めたグループの方向と役づくりの回想。 ↩︎
  38. 『ロックよ、静かに流れよ』(映画のパンフレット、東宝出版事業室、1988年2月13日発行)4〜5ページ「MESSAGES from 監督 長崎俊一」 — 男闘呼組が生き生きと魅力的であればという思いで作ったこと。 ↩︎
  39. 『MYOJO』1988年1月号 18〜19ページ「FRAME OUT」(映画『ロックよ、静かに流れよ』カメラの中の生活) — 長崎俊一の4人の評。 ↩︎
  40. 『ロックよ、静かに流れよ』(映画のパンフレット、東宝出版事業室、1988年2月13日発行)16〜17ページ「男闘呼組 INTERVIEW ● CROSSIN’ HEART」(1988年1月12日、テレビ東京で。聞き手は野村正昭) — けんかの場面とセリフについての4人の話。 ↩︎
  41. 「音楽的に試行錯誤を繰り返した」成田昭次が明かす当時の男闘呼組、性格がバラバラの「4人だから面白かった」(双葉社THE CHANGE、2025年12月16日。リレー連載の第11回) — 成田昭次の、4人の性格とバック転、3か月続けたアルバムのころの試行錯誤、活動休止の時のこと、曲を作れるプライド。 ↩︎
  42. 2024年1月18日放送の『成田昭次のRockon The Knight』 — 成田昭次の、性格もキャラクターも異なる「四者四様」の4人が集まるとひとつになり、大きなエネルギーやパワーを生むという話。 ↩︎
  43. 舞台『the Slab Boys』パンフレット(1993年)19ページ「男闘呼組の魅力」(長崎俊一) — 4人が集まるとできあがる親密な空気と、グループとしての男闘呼組の魅力。 ↩︎
  44. 伝説のジャニーズ「男闘呼組」の凄まじい魅力(文春オンライン、2023年5月4日) — 元日の少年御三家の武道館公演と映画の公開。中村繁之が少年漫画『男組』の名を提案したという匿名のスポーツ紙芸能デスクの説明。同記事は4人に落ち着いた時期を「1986年以降」とする。 ↩︎
  45. 『MYOJO』1988年4月号 199〜200ページ「友が死んだ夜 ボクらは走り始めた!」 — 男闘呼組の初主演映画の公開。 ↩︎
  46. 成田昭次、映画『ロックよ、静かに流れよ』を語る「人生の一部みたいに感じている」(2025.08.10放送) ↩︎
  47. 『’88年鑑代表シナリオ集』(シナリオ作家協会編、映人社、1989年4月20日初版発行)412ページの作品解説 — 男闘呼組の「輝いた瞬間」。 ↩︎
  48. 男闘呼組ファンクラブ会報 第1号(1988年11月) ↩︎
成田昭次

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