青山英樹 挫折から見つけたドラマーの道、父・青山純との縁、そしてメンバーへの思い(連載中):THE CHANGE

「双葉社 THE CHANGE」にて、青山英樹の記事(Rockon Social Clubリレー連載 第6回~第8回)が掲載されました。

Rockon Social Clubのリレー連載2番手として、ドラマーの青山英樹が登場。記事では、青山英樹のキャリアにおけるいくつかの「THE CHANGE(転機)」について語られています。

最初の転機は、Jリーグのプロ選手を目指していた少年時代、ヴェルディ川崎(当時)のユースセレクションで最終選考に落ちたことによる挫折でした。その失意の中、父・青山純の家にあったドラムに触れたことが、ドラマーとしての道を歩み始めるきっかけとなります。

青年期にはX JAPANYOSHIKIに衝撃を受け、ツーバス・ドラマーとしてのスタイルを確立。ロックバンド・ARMERIAでデビューするも、好きな音楽と商業的な成功の狭間で葛藤し、解散を経験します。その後、JAM Projectのサポートなど、サポートドラマーとしてキャリアを築き直し、その中で父・青山純の偉大さを再認識したと語っています。

また、父・青山純もかつてサポートした男闘呼組再始動、そしてRockon Social Clubへの参加は、不思議な縁を感じたと振り返ります。成田昭次の第一印象や、NARITA THOMAS SIMPSONでの活動との違い、Rockon Social Clubの他メンバー(高橋和也岡本健一前田耕陽寺岡呼人)への率直な思いも明かされています。

詳細については、元の記事をご覧ください。

第1回:高橋和也とRockon Social Clubでリズム隊、青山英樹が語る「プツンと音を立てて切れた」挫折と再会、「リズム感が養われていたのかも」山下達郎も敬愛した名ドラマーの父から受け継いだもの

青山英樹の最初の転機は、小学生時代にさかのぼります。Jリーグ開幕に夢中になり、プロサッカー選手を目指してヴェルディ川崎(当時)のユースセレクションを受験。しかし、最終試験で不合格となり、その瞬間に「張りつめていた糸みたいなものが、“プツン”って音を立てて切れちゃった」と、当時の挫折を語っています。 サッカーの道が途絶えた頃、父(青山純)の家にあったドラムを友人と遊びで叩いたことが、新たな道への入り口となりました。偉大なドラマーである父の演奏を見て育ったことで、無意識のうちに「絶対的なリズム感みたいなものが養われていたのかもしれませんね」と振り返っています。

第2回:「速さこそ正義だ」Rockon Social Club青山英樹が衝撃を受けたX JAPANのYOSHIKI、「壁にぶち当たりました」プロデビュー2年後と影山ヒロノブらアニソン界のレジェンドのサポートドラマー

ドラムに目覚めた青山英樹が次に衝撃を受けたのは、X JAPANYOSHIKIでした。ツーバスの派手なドラムセットと高速なプレイに「速さこそ正義だ!”って、とにかくものすごい衝撃だった」と語り、それが自身のスタイルにも影響を与えました。 2006年にはロックバンド・ARMERIAでデビューを果たしますが、ハードロックを志向するバンドと、ポップスを求めるメジャーシーンとのギャップに直面。「自分たちが好きな音楽だけをやっていても、音楽で食っていくのは難しい」と、プロの壁にぶつかり、バンドは2年で解散します。その後、サポートドラマーとしてキャリアを再スタートさせ、JAM Project影山ヒロノブ)などの現場を経験する中で、父・青山純のすごさを実感するようになったと明かしています。

第3回:成田昭次の第一印象は「めちゃくちゃ怖い人」Rockon Social Club青山英樹が語る「分け隔てのない」「大切な存在」「ムードメーカー」の男闘呼組メンバー、寺岡呼人は…、プレゼント交換も

父・青山純がサポートしていた男闘呼組再始動に、自身がドラマーとして参加することになった際の心境を告白。初めて会った成田昭次については「ものすごく無口で。第一印象は“めちゃくちゃ怖い人”でした」と、当時の緊張感を振り返ります。 また、Rockon Social ClubNARITA THOMAS SIMPSON、男闘呼組のそれぞれで見せる成田昭次の違いや、岡本健一高橋和也前田耕陽寺岡呼人といった各メンバーの印象についても語られています。さらに、コラボアルバム『THE SHOW MAN』についても触れ、「コラボする方の個性をすごく引き出す楽曲やアレンジ」になっていると、プロデューサーでもある寺岡呼人の手腕について言及しています。

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