男闘呼組のデビューから活動休止までは、男闘呼組が1988年8月24日に「DAYBREAK」でデビューしてから、1993年6月30日に活動を休止するまでの歩みである。
デビューから活動休止まで(1988〜1993年)
レコードデビューとヒット、初めての東京ドーム公演
夏の合同公演を重ねていた男闘呼組は、1988年8月24日、シングル「DAYBREAK」でレコードデビューし、オリコンチャートで最高1位を獲得した。1デビュー当日も、大阪城ホールで『少年御三家 夏の陣』の公演に出演していた。2成田昭次は、デビューの記者会見について「確かデビュー記者会見、eggmanでしたよね」と、渋谷のshibuya eggmanを思い出している。3続く9月26日には、1枚目のアルバム『男闘呼組』を発売した。テレビのランキングでも人気を集め、10月13日の『ザ・ベストテン』では「DAYBREAK」が2週連続で1位になった。4人それぞれと共演した俳優から祝福のメッセージも寄せられ、高橋一也(今の高橋和也)には原田芳雄、成田には高田純次、前田には西田敏行、岡本には山﨑努が言葉を贈った。4
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デビューした年の暮れには、受賞と紅白への初出場が重なった。1988年12月31日の第30回日本レコード大賞で、「DAYBREAK」が最優秀新人賞、アルバム『男闘呼組』が優秀アルバム賞に選ばれた。56同年の新人賞にはBUCK-TICKも選ばれ、高橋は候補の顔ぶれとして香西かおりも思い出している。7受賞を予想していなかったメンバーは、細川たかしが発表すると立ち上がり、抱き合って喜んだ。成田は、尖って見えた4人の、普段見せていなかった真面目な一面が表れた瞬間だったと振り返る。同じ日の第39回NHK紅白歌合戦には「DAYBREAK」で初出場した。8大晦日は『年忘れにっぽんの歌』も含めた3番組のリハーサルと本番を掛け持ちし、会場間の移動で白バイに先導されたこともあった。9成田にとって、年末年始も仕事でメンバーと一緒に過ごす日々だった。10

シングルのヒットは「秋」「TIME ZONE」へ続き、「DAYBREAK」と合わせた3曲はいずれもオリコン週間シングルランキング1位を獲得した。11ライブと制作も並行して進み、1989年春には『男闘呼組 ’89 Spring Concert』で地方を回り、ビデオ撮影、新しいアルバムのレコーディングが重なる中、自作曲をアルバムに入れることも考えていた。125月6日には、よかトピアの『ヤングフェスティバル1』初日で2公演を行った。13夏の全国ツアー『男闘呼組 夏・Big Tour ’89』では、1989年8月28日に初めての東京ドーム公演を開き、5万人のファンが集まった。公演は、映像作品『BIG TOUR ’89 in DOME』に収められた。14成田は、この公演の記憶は「永遠に刻まれてる」と語っている。15後年、東京ドームホテルにその公演の記念プレートがあると知った成田は、歴代の音楽家と名前が並ぶことを光栄に感じ、メンバー4人で訪ねて記念写真を撮りたいと望んだ。16
バンドへの批判と反抗、4人の結束
こうした成功の一方、1980年代後半の第2次バンドブームの中では、アイドルの事務所でバンドをする男闘呼組への風当たりが強まり、「本物ではない。偽物のバンドだ」と言われた。ロックミュージシャンの内田裕也に「あいつらはね、俺、ロックだと思うよ」と認められるなど、ロックバンドとして認める著名人は増えていったが、空港や電車の中で絡まれるのは日常だった。バンドブームを検証し、アマチュアのバンドマンが多く出た生放送の討論番組では、ゲストの高橋と、ひな壇の最上段のバンドマンが、放送直前まで怒鳴り合った。成田は、どこへ行っても喧嘩が絶えないことを、メンバーが「俺たちは、“男が闘いを呼ぶグループ”だ。バンド名通りなんだ」と受け止めたと振り返る。空き缶を投げられても、自分たちには自分たちのやり方しかなく、虚勢でも胸を張って進むしかなかったという。高橋も、ロックとアイドルの境界で孤立し、頼れるのは互いだけだったことが、4人の結束を強めたと考えている。
反抗は、偽物のレッテルを貼る人のほかにも向いた。「ロックバンドだから」と、事務所の名物のうちわ・ペンライト・手拍子での応援を禁止し、テレビのインタビューには尊大な態度で臨んで、何を聞かれてものらりくらりとはぐらかした。サインを求められると、漫画『あしたのジョー』の力石徹の名前を書いた。一方、成田はペンライト禁止の記憶はあまりないとも話している。若いころの取材では、仲のよさと多忙さを口にするとともに、成田は多くの人に愛されたいと望み、岡本健一は飾らない自分たちの姿を愛してほしいと語っていた。後年、その映像を見返した岡本は、当時の態度を反省し、自分たちを許してくれたスタッフへの感謝を語っている。
ロサンゼルスでの観覧とタトゥー
海外のバンドを4人で見に行く時間もあった。1989年の後半、初めてのプライベートの旅行でロサンゼルスへ行き、ザ・ローリング・ストーンズの公演を見た。夏のツアー中に、メンバーの誰からともなく「ストーンズ見に行こーぜ」という話になったという。前座はガンズ・アンド・ローゼズだった。成田はそのガンズ・アンド・ローゼズを目当てに見に行き、演奏とパフォーマンスは想像を上回ったと振り返っている。岡本は、アルバム『スティール・ホイールズ』を携えた同名のツアーをメンバーと観たと覚えている。翌1990年のストーンズの初来日公演でも、岡本と高橋は東京ドームに足を運び、最前列でアンコールを観た。

海外での仕事では、タトゥーをめぐってメンバーが衝突したこともあった。1989年、CM撮影で訪れたロサンゼルスで、成田と岡本は、ホテルの隣の店、サンセット・ストリップ・タトゥーを見に行った。憧れのガンズ・アンド・ローゼズやボン・ジョヴィのメンバーがタトゥーを入れた店だった。2人とも入れるつもりはなかったが、岡本の顔見知りのX(今のX JAPAN)のHIDEとTAIJIが施術を受けていた。「痛い?」「大丈夫だよ、全然」と聞いた2人は、「健一が入れるんだったら入れるよ」「昭次が入れんだったら入れるわ」と言い合い、成田はエンジェル、岡本は太極図のタトゥーを肩に入れた。2人の共有した時間と関係については、成田昭次と岡本健一に詳しい。
岡本と同じ部屋だった高橋は「親からもらった体に! 男闘呼組、続けられねえじゃねえか!」と激怒したが、本当に嫌だったのは誘われなかったことだった。その後、高橋もストーンズ観覧のために渡米した時に、肩にベースとバラのタトゥーを入れた。高橋は、自分たちが本当のロックバンドだと世の中に納得してもらうまで引かないという決意を証明したかったと話している。3人は前田にも入れるよう迫ったが、前田は、店で痛みに絶叫する客を見て逃げ帰り、入れなかった。成田は、若気の至りだったと振り返る。
2年連続の受賞と紅白、全国公演と海外レコーディング
ヒット曲と全国での公演を重ねた1989年の暮れには、12月31日の第31回日本レコード大賞で、「TIME ZONE」が金賞、アルバム『男闘呼組 二枚目』が優秀アルバム賞に選ばれた。第40回NHK紅白歌合戦にも2年続けて出場し、武田鉄矢の紹介で「TIME ZONE」を演奏した。
当時の衣装について、前田耕陽は、「TIME ZONE」の歌唱時に着たクリーム色のバックスキンの革ジャンを気に入り、約20万円で買い取った。男闘呼組時代の衣装で手元に残るのはこの1着で、当時は大きめに着ていたため、後年も着用できるという。
レコーディングとツアーを重ねる中、1990年にはロンドンで初めての海外レコーディングをした。全国を回るツアー『男闘呼組 LIVE ’90』も行い、岡本は、日本全国を数多く回ろうと話していた時期を振り返っている。当時のレコード会社はBMGビクターで、成田は、同じレーベルの福山雅治を、レコード会社の授賞式などで遠くから見かけたと回想している。
翌年の全国ツアー『I’m Waiting 4 You ’91』では、1991年4月4日の横浜アリーナ公演が、映像作品『LIVE IN YOKOHAMA 1991 vol.1』『vol.2』の2巻に収められた。キーボードで参加した田中厚も両巻に出演した。ツアー後の夏には、写真集の撮影でロサンゼルスへ行った。撮影に先立ち、前田は、自分と岡本は映画宣伝のため先に帰国すると話していた。撮影の後も、成田と高橋は別々に現地に残った。
個人活動と制作の分化、メンバー間の衝突
その一方で、バンドと個人の仕事をどう両立するかという問題もあった。メンバーにドラマや舞台の仕事が来ると、数か月はバンドの活動ができず、時間をもてあました岡本は、仲間とADDICT OF THE TRIP MINDSを立ち上げた。ほかのメンバーも、それぞれの音楽仲間とセッションをくり返すようになった。前田は、個人活動が忙しくなると4人での練習で衝突もあったが、互いの仕事に口を出さず、それぞれがやりたいことを認めていたと振り返る。高橋は、20代前半に強くなった各自の自立心が、必ずしもグループによい効果をもたらすとは限らなかったと捉えている。
各人の異なる音楽性は、1992年に3か月続けて発売したアルバム『5-1…非現実…』『5-2…再認識…』『5-3…無現実…』にまとまった。成田は、当時の制作を「ソロのアーティストが4人いるような状態だった」と振り返っている。三部作では、仲のよいミュージシャンを連れてきて、自分の曲を別々にレコーディングすることもあったという。成田は、仲が悪くなったり喧嘩をしていたりしたためではなく、それぞれが自分の音楽を追求していた時期だったと説明している。メンバー間の仕事の連絡は、当時は主に家の留守番電話で取り合っていた。成田は、1991〜92年ごろから強まったソロ志向で、バンドの音楽的な母体が見えにくくなっていたとも考えている。最後のアルバム『ロクデナシ』のころには、制作への関わり方がさらに分かれ、岡本は、音楽の方向や制作への関わりをまとめられなかったことを自分たちの問題と捉えている。そのまま続けていれば関係を修復できなくなったかもしれないとも振り返っている。
ロックバンドとして認められたいという4人の思いは、誰にも抑えられないほど強くなる一方、メンバーの間には少しずつ隙間風が吹き始めていた。ライブの雰囲気が良くないと、高橋は楽屋でテーブルを蹴り倒して当たり散らし、成田は「終わっちゃったもんは終わっちゃったんだから、次改善すればいいだろ」と冷めた目で見ていた。『ロクデナシ』のレコーディングの日、代官山のスタジオに1時間遅れ、酒が入った様子で着いた高橋は、前田の曲のアレンジに「何だよ、このアレンジ、だっせえなあ」と言い、その瞬間に成田が殴りかかって、2人はもみくちゃになった。高橋は、ばらばらになり始めたグループをつなぎ止め、大喧嘩をすれば昔のように本音を言い合えると思ったが、「完全に空回りだよ」と振り返る。若いころの殴り合いは、成田も回想している。岡本も、成田と高橋のつかみ合いが『ロクデナシ』のレコーディングのころだったと記憶している。
4人での舞台と活動休止
4人での仕事は、音楽のステージから舞台へと続いた。1993年5月15日の日本武道館では、合同ライブ『ariola MEETING 1993』に出演し、このときの「インディアンの丘で」が映像作品『ariola MEETING 1993』に収められた。続いて6月5日に始まる『the Slab Boys』では、ロバート・アラン・アッカーマンの演出で、カリー主任役の原金太郎、ジャッキー役の趙方豪と共演した。アッカーマンは、4人が力を最大限に使い、成長しようとする真剣な姿勢を評価し、趙も、準備の完璧さと、演出家の要求に柔軟に応じるリズム感に感心していた。成田自身も、互いに気持ちを表現して分かり合える「凄くいい状態」にあり、その時期に4人で芝居をできることを喜んでいた。

しかし、その舞台の稽古中に、成田・岡本・前田の3人は会議室に呼ばれ、高橋を6月30日の千秋楽で解雇すると知らされた。3人は4人で続けられないかと事務所に迫ったが、決定は覆らなかった。7月からの全国ツアー『THE OTOKOGUMI ‘93』はチケットが売り切れていたが、成田は、3人でのツアーも、自分のソロのツアーで代える案も、「4人で男闘呼組だから」「ひとりで男闘呼組の曲を歌うことはできない」と断り、ツアーは中止になった。4人は解雇のことを人に話すのを厳しく禁じられ、「これが4人でやる最後の仕事」と知りながら舞台の初日を迎えた。
舞台の千秋楽をもって、男闘呼組は1993年6月30日付で活動を休止した。その後の8月21日に、活動休止までに作った最後のオリジナル・アルバム『ロクデナシ』が発売された。成田は、活動休止の時、誰も口に出して「男闘呼組は、もうこれで終わりだ」とは言わなかったが、4人でいる時間がどんどん少なくなっていったと振り返る。前田耕陽も、それぞれにやりたいことが出てまとまらなくなっていったと振り返る一方、バンドとして切磋琢磨して成長していた時だったので、休止には正直驚き、初めは恨むような気持ちもあったと話している。
- 伝説のジャニーズ「男闘呼組」の凄まじい魅力(文春オンライン、2023年5月4日) — デビューとシングルの週間チャート1位、最優秀新人賞、紅白初出場、うちわ・ペンライト・手拍子の禁止。匿名のスポーツ紙芸能デスクによる、1993年6月30日の舞台千秋楽後の高橋和也の解雇発表と、完売した夏のツアーの中止の説明。元日の少年御三家の武道館公演と映画の公開、同デスクによる中村繁之の命名案の説明も含む。4人に落ち着いた時期は「1986年以降」とする。 ↩︎
- 成田昭次、「まさかこんなに自分がギターを練習するとは思わなかった」 ギタリスト人生の原点と師・野村義男との出会いを語る(2025.9.20放送) ↩︎
- 岡本健一、舞台と音楽における「自由」を語る。成田昭次との制作秘話も明かされた(2023.11.16 放送)成田昭次の回想(デビューの記者会見の会場)。 ↩︎
- 1988年10月13日放送の『ザ・ベストテン』(TBS)。 — 「DAYBREAK」の2週連続1位と、原田芳雄から高橋一也、高田純次から成田昭次、西田敏行から前田耕陽、山﨑努から岡本健一への祝福。 ↩︎
- 「第30回日本レコード大賞」・「第31回日本レコード大賞」(日本作曲家協会) — 1988年の最優秀新人賞「DAYBREAK」と優秀アルバム賞、1989年の金賞「TIME ZONE」と優秀アルバム賞。 ↩︎
- 2025年8月30日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
- 成田昭次「中居くんに電報を出した」記憶なし!? 忍者・正木慎也、Kawasakiのバイクで駆け抜けた青春(2023.12.28 放送) ↩︎
- 「NHK紅白歌合戦〔39〕」・「NHK紅白歌合戦〔40〕 第2部」(放送ライブラリー) — 1988年と1989年の出演。 ↩︎
- 2024年9月28日放送の『成田昭次のRockon The Knight』(ニッポン放送)。 — 成田昭次と前田耕陽の、最初のホール公演が名古屋だったという回想、4人の音楽の好み、大晦日の3番組の掛け持ちと会場間の移動。 ↩︎
- 2025年1月4日放送の『成田昭次のRockon The Knight』。 ↩︎
- 男闘呼組、29年ぶり再始動ライブで男泣き「忘れたことはなかった」(ORICON NEWS、2022年10月15日) — 「DAYBREAK」「秋」「TIME ZONE」の週間シングルランキング1位。 ↩︎
- 男闘呼組ファンクラブ会報 第4号(1989年5月)「男闘呼組情報局★拡大版」 — 春の地方ツアー、ビデオ撮影と新アルバムのレコーディングの並行、自作曲を収める構想。 ↩︎
- 【別冊シーサイドももち】〈001〉よかトピアに男闘呼組がやってきた!(福岡市博物館ブログ、2022年8月19日) — 1989年5月6日の2公演と『ヤングフェスティバル1』初日。 ↩︎
- 成田昭次『人生はとんとん―成田昭次自叙伝―』(集英社、2026年)。 ↩︎
- 2026年4月19日放送の『Go! Go! Rockon!』 ↩︎
- 【ギタリスト列伝・特別編】成田昭次のギター講座「成田昭次のRockon The Knight」(2025.08.09放送) ↩︎

