男闘呼組、こんな夢も見られるのだから(3) 4人で出した結論:日経クロストレンド

日経クロストレンドによると、29年ぶりに再始動した男闘呼組のメンバー4人(成田昭次さん、高橋和也さん、岡本健一さん、前田耕陽さん)が、再結成に至るまでの詳細な経緯と現在の心境をインタビューで語りました。

再結成を最も強く推進したのが、メンバー間では意外にも岡本健一さんであったことや、成田昭次さんが8時間にもわたる説得や周囲の応援を受けて心を決めたことなど、復活までの舞台裏が明かされています。彼らが昔から大切にしている「絶対結論は4人で出してる」という姿勢が、今回の再始動でも貫かれたとのことです。

また、復活を象徴する楽曲『パズル』が、もとは成田さんと寺岡呼人さんのソロプロジェクトの楽曲であり、4人で歌うことで「マジックが起きた」と感じたエピソードも披露。「今が一番仲いい」と語るメンバーたちの現在の関係性や、新バンド「Rockon Social Club」の活動についても触れられています。


初めて過ごした4人だけの空間

耕陽

長い道のりでした(笑)。でも、1つの空間の中であんなに長い時間、4人だけで過ごしたのは初めてだったよね。

和也

昔は必ずスタッフやマネジャーさんが一緒だったから。耕陽の運転で昭次が助手席、その後ろに俺がいて、運転席の後ろに健一がいて。4人だけでゲラッゲラ笑いながらドライブした。

耕陽

その時に和也がね、92年のライブ音源を持ってきていて、それをみんなで聴きながら。「ああだったね、こうだったね」なんて思い出話をして。

和也

俺たちの曲、かっこいいよな!」つって(笑)。みんなまだ20代で、「男闘呼組はロックバンドで、自分たちで曲を作って、自分たちの演奏でやるんだ」つって、すごいギラギラしながらやってる時の演奏だから。当時も自分たちが男闘呼組の一番のファンっていうぐらい「いいじゃん、これ」って思ってたんだよね。で、それを久しぶりに聴いたら、当時の自信が確信に変わっていくような、そんな感じがした。

健一

93年に活動休止になって、その後みんな事務所もバラバラになっちゃったから、正直、俺の中では、「もう再結成はないな」と思っていたんです。でも、どこかで「活動休止」っていう状態がなんか気持ち悪いというか、「活動休止っていうんだったら、また動く時があるんじゃないの?」「じゃあ、いつ?」っていう疑問が、ずっとくすぶってたんですよね。そんななかでさっき言ったような流れになって、「いける!」って思った瞬間に、「やるなら3年後だ!」ってピンと来た。2023年がデビュー35周年で活動休止から30年だから、「2023年にライブをやるぞ!」って俺は勝手に自分の中で決めた。

昭次

それが僕は一番びっくりした。僕の中では、再結成を最も望んでなかったのが健一というイメージだったから。

健一

うん、全然望んでなかった(笑)。

昭次

なのに、まさか50過ぎて、その人から再結成を打診されるとは(笑)。

耕陽

それ、みんながびっくりしてる。「え、健ちゃんが言い出す?」って。

健一

20代~30代の頃にも、何回かあったんだよね。一緒にセッションしないかって誘いが。その時は俺、「やんない」って即答してた(笑)。再結成がイヤだったというより、4人で集まるなら、もっとデカいところでやりたい思いがあったんで。

昭次

こっちはそんなこと知らないから、健一から「再結成ってどう思う?」ってメールが来たときは、「これ和也の間違いかな?」って疑ったよ(笑)。僕は長いことギターを弾いていなかったし、健一の「再結成」っていう言葉になかなか返事できなかった。どう返したらいいんだろうって。

健一

いち社会人として働いて、生計立ててたわけだもんね。

昭次

それもあるけど、再結成ってすごく覚悟がいることだから。でも確かに健一が言うように、93年に活動休止のまま終わっていて、チケットを完売していたツアーもできなくて1、ファンの方は行き場のない思いをずっと抱えてる。健一が再結成の提案をしてくれたとき、僕もこのまま活動休止の状態だったら、この先の人生で無念や後悔が残るかもしれないと思ったんだよね。そんな気持ちのなかで決断するきっかけになったのは、東京で健一に会ったとき、僕の活動をサポートしてくれるというプロデューサーのTANNYさん2を紹介されたこと。

和也

そのとき健一が昭次に、「人に見られなくても地道で堅実な人生を送るのと、もう1度舞台に立ってお客さんの前でギターを弾くっていう人生があるなら、やっぱり後者を昭次には選んでほしい」って言ったんだよね。

昭次

そうそう。その日は全部で8時間ぐらいかけて説得された。で、俺の気持ちが再始動に向けて傾きかけた頃に、これは大事なことだから、和也と耕陽にも連絡しようって言って。

和也

今から来い」って連絡もらったけど、俺ロケ中だったから無理だった(笑)。

耕陽

夜だったもんね。俺も大阪にいるのに、「今から来い」って言うんだから(笑)。

昭次

健一がそのメッセージを発したときに和也と耕陽もちゃんと同じグループLINEを見ててくれたんです。男闘呼組って、いざ向かう先を決めたら必ず4人で同じ列車に乗車する。昔から何か決断するときは全員の確認があったから、今回もそれぞれの気持ちを大切にしたかった。

和也

昔からそうだよね。絶対結論は4人で出してる。

昭次

それがあって、名古屋で勤めていた会社の社長さんにその話をしたら、すごく応援してくれたんです。会社総出で送り出してくれて、「これはもう俺、東京に行かなきゃいけないよな」みたいな。同世代の同僚が男闘呼組の話が出たときに、「実は好きなんです」と言ってくれる人が結構いて。みんな「絶対やったほうがいい」と言ってくれて、それで心が固まりました。ただ、いきなり音楽1本でやるのは厳しかったので、事務所が経営する飲食店で働きながら音楽のリハビリをした感じです。ついこの間、TANNYさんを紹介されたお店に健一と久しぶりに行ったんだけど、「まさかこんな展開になると思わなかったよ」って言ったら、健一は「いや俺はもう最初っからこうなると思ってたよ」って。

耕陽

えーっ! 健ちゃんは未来が見えてたんだ…。

スタジオで起きたマジック

男闘呼組として29年ぶりのテレビ出演となった音楽特番『音楽の日2022』では、4人の再結成を歌にしたような『パズル』という楽曲を披露し、これは復活ライブでも最後を締めくくる曲になっている。同曲は22年に発表された成田のソロユニットの曲。29年前のアレンジや原キーへのこだわりを持って再始動したなか、『パズル』を“今”の代表曲の1つとして披露した経緯とは。

昭次

もともとこれは僕のソロアルバムに収録してる、寺岡呼人さんとコラボレーションしてできた曲です。僕の音楽のリハビリを経て、22年は「成田商事」というバンドで呼人さんと一緒にライブをやることになって3、その初めてのミーティングでこれまでのいろんな話をしたんですね。それを呼人さんが曲にしてくれた。ただ、最初1人で歌ったときは正直しっくりこなくて、「これは4人で歌ったらもっと良くなるんじゃないかな」って思った。それで耕陽と健一と和也に、「『音楽の日』にやれないかな」って相談したんです。

健一

高度で、押さえたことないコードがいっぱいあったから練習したね~(笑)。

昭次

それぞれに練習してたときはまだしっくりきてなくて。でも、いざスタジオに入ってみんなで音を出したら…

健一

すごい良かった!

昭次

マジックが起きた。で、「せっかくだから、昔みたいに歌のパートを振り分けようよ」って。

和也

男闘呼組の良さは、それぞれが歌うっていうところと、コーラスが持ち味だから。歌をパート分けしたらそれぞれが背負ってきた人生が歌と重なって、全員が「これいい曲だ!」ってなったよね。

昭次

『パズル』ってタイトルなだけあって、みんなで歌うことでようやくこの曲が完成したなと思いました。僕らも今が一番仲いいっていうか。こんなに一緒にいて楽しいのは、いろいろあっての今だからなんだろうなって思える。

今が一番いい時期なのかも

復活ライブのMCで岡本は、「生きていればきっといいことがある」と語っていた。ここにきて1つの奇跡を体験した4人が、今見ている夢とは。

和也

アイドルグループとして集められた、ビジネス上の付き合いじゃなくて、人間同士として付き合ってるからケンカもするし、本音で言いたいことも言う。でもしょっちゅう馬鹿笑いしてて、楽しそうに見える。そこがあいつらのいいところなんだよって俺らは昔から言われていたけど、今こうして再結成できているのは、そのへんにヒントがあるのかも。

健一

男闘呼組が活動休止したのも結局、自分たちで決めたことだからね。今はいろんなアイドルたちがそれぞれの道を進む時代で、ときにそれはファンの方が望む道じゃないかもしれないけど、それも最終的には自分の意思で決めてることだと思う。何にせよ確かなのは、別の道は決してマイナスじゃないってこと。だって、新しい人生が始まるわけだから。

耕陽

うちらみたいに、全員が「やりたい」って思えば、また集まることもできるだろうし。とにかく誰かが我慢してやるっていうのが、一番よくないから。

昭次

僕らの場合は、みんなが物事を中途半端に放棄してないのが大きかったと思う。僕は長らくエンタメ業界にいなかったけど、再始動が決まってから、名古屋での仕事はやり終えさせてもらったし、健一もいろんな交渉をして僕たちを導いてくれた。和也や耕陽の事務所のスタッフの皆さんしかり。

健一

面白いのはさ、20代の時よりも今のほうが元気な感じするんだよね。若さは確かにすごいエネルギーだけど、演劇界にいると70~80歳の人たちがすごい元気で、ミュージシャンも俺らよりも上の人たちがバリバリ活躍してる。だから俺たちも全然いける気がするし、それは全国にいる50代の男の人たちも同じように感じていると思うんだよね。ここから何か面白いほうへ動いていける予感がする。

和也

そういう意味では、今が一番いい時期なのかも。いろいろ経験して、酸いも甘いも分かった上で、自分の体のことも若い時よりは分かってるじゃない?(笑)。

健一

そう、自分のダメなところを分かっているっていうのが、強い(笑)。

和也

さんざん声を潰したりもしてきたから(笑)。大変なときをどう乗り越えるかは体が覚えてる。50代前半で楽器を演奏するグループとして再始動できてよかったよね。

健一

僕が大きい会場にこだわったのは、とにかく1人でも多くの人に、ライブに足を運んでもらいたかったから。舞台もそうだけど、「ライブが好き」とか「演劇が好き」って人は多いけど、大多数の日本人は、そんなにライブを経験してないんですよね。

耕陽

生じゃないと伝わらないものがたくさんあるのにね。

健一

男闘呼組のライブはうちわもペンライトもなくて敷居が低いし、自由に乗ってくれたらそれでいいんだけどね。ま、ペンライトは和也が「いらねぇ!」って言い出したんだけど(笑)。

和也

ロックバンドなのにペンライトって、当時はかっこ悪い感じがしたんだよ。

耕陽

和也は、いろいろ不思議なことやってたよね。手拍子禁止したり(笑)。

健一

リズムが合わねぇ! 歌えねぇよ! って(笑)。

耕陽

会場が広いから、前と後ろがズレるんですよ。手拍子ぐらい、いいのにね(笑)。

健一

黙って聴け!」とか言って(笑)。ワンコーラスやって、「ストップ、ストップ」なんて、止めてたりもしたよな(爆笑)。

昭次

そんなことができたのも、ジャニーズだったからかなって今は思う。いろんな先輩に囲まれて、いろんな伝統に反発したり影響されたりしながら、男闘呼組は出来上がっていったと思います。


  1. 1993年6月、4人が出演していた舞台の千秋楽に男闘呼組「活動休止」が発表され、夏に開催予定だった全国ツアーは中止に。今年4月からの全国ツアーは、その時に行けなかった地方の会場をメインに回る。 ↩︎
  2. MISIA、Little Black Dressなどのプロデューサー。もともと岡本と交流があり、再始動にあたっての成田の上京を全面的にサポート。 ↩︎
  3. 20年11月、Little Black Dressのライブのゲストで10年ぶりにステージに立った。22年6月に元JUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人らとスリーピースバンド「成田商事」を結成し、全国ツアーを開催。 ↩︎
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