前田 耕陽(まえだ こうよう、1968年8月16日 – )は、日本の俳優、タレント、キーボーディストである。男性アイドルグループ・男闘呼組の元メンバー(1985年 – 1993年、2022年7月 – 2023年8月)であり、現在はRockon Social Clubのメンバーとして活動している 。
プロフィール
- 本名: 前田 耕陽 (まえだ こうよう)
- 生年月日: 1968年8月16日
- 出身地: 東京都 (世田谷区生まれ、八王子市→日野市育ち)
- 血液型: A型
- 利き手: 左利き
- 身長: 170cm
- 職業: 俳優、タレント、キーボーディスト
- 所属グループ:
- 男闘呼組 (元メンバー: 1985年 – 1993年, 2022年7月 – 2023年8月)
- Rockon Social Club (2022年 – )
- ジャニーズ時代の参加ユニット: 東京男組、少年御三家、男闘呼組
- その他: 大手芸能プロダクションA-teamが運営する芸能スクール「アカデミー・エンターテイメント」講師
- 家族: 妻・海原ともこ (漫才師)、長女 (歌星)、長男 (將月) 。元妻は中村由真 。
来歴
生い立ちとジャニーズ事務所入所
1968年8月16日、東京都世田谷区に生まれる 。その後、八王子市、日野市で育つ 。学歴は八王子市立恩方中学校を卒業後 、明治大学付属中野八王子高等学校(全日制)に進学するも、後に明治大学付属中野高等学校(定時制)へ編入学。1年間の休学を経て、延べ6年かけて卒業した 。
ジャニーズ事務所への入所は、高校1年生だった1984年12月のことである 。その経緯は異例なものであった。当時通っていた高校の女子生徒が、卒業アルバムを元に同級生の男子生徒全員(約150名)の履歴書を作成し、ジャニーズ事務所に送付したことがきっかけとなった 。後日、前田のもとにジャニー喜多川氏本人から電話がかかってきたが、当時の前田はジャニー氏が誰であるか認識しておらず、電話口で「どちらのジャニーさんですか」と問い返したという 。すると、「今、トシちゃん(田原俊彦)のコンサートをやっているから新宿まで来い」と指示され、言われるがままに会場の東京厚生年金会館へ足を運んだ 。コンサートを観覧した後、ジャニー氏から「今度こういう(バンド)グループを作ろうと思うんだけど、ヤル気はないか?」と直接スカウトされ、これが後の男闘呼組への参加、そしてジャニーズ事務所入所の直接的なきっかけとなった 。通常のオーディションを経ずに合格した、いわゆる特待生としての入所であった 。
この偶然とも言える芸能界入りの経緯は、その後の前田のキャリアにおける柔軟性や適応力に繋がっているのかもしれない。特定の強い野心を持って門を叩いたわけではなく、提示された機会に応える形でキャリアが始まったことは、後に音楽から俳優、そして舞台制作へと活動の幅を広げていく彼の姿勢の素地となったとも考えられる。
入所直後から、事務所は前田の俳優としての可能性にも着目していたようである。入所翌日には早くもテレビドラマのオーディションに参加させられ、見事に合格 。その翌週から撮影が開始されたというスピード展開であった。その作品こそ、深夜ドラマの草分けとして知られる『Triangle Blue』シリーズであり、とんねるず、可愛かずみ、川上麻衣子といった面々と共演し、好評を博した 。これは、まだ男闘呼組が本格始動する前の出来事であり、彼のキャリアが当初から音楽活動と並行して俳優業にも目が向けられていたことを示している。
男闘呼組時代
結成と加入
男闘呼組の母体となるグループの構想は、前田が入所する少し前の1984年末に動き出していた。雑誌『マイアイドル』の撮影で初めて顔を合わせた成田昭次、高橋一也(現・和也)、岡本健一の3名に対し、ジャニー喜多川氏が「東京」というグループ名を命名 。その後、遠藤直人、守屋二郎が加わった5人体制で明治製菓のCMに出演、この頃から「東京男組」と名乗り始めた 。前田はこの時期、「東京男組」の補佐的なメンバーとして活動に参加していた 。
1985年3月、グループ名は正式に「男闘呼組」へと改められる 。しかし、メンバー構成は流動的で、守屋二郎、土田一徳(キーボード)、遠藤直人(キーボード)が相次いで脱退 。一時は成田、高橋、岡本の3人での活動となったが、その後、「東京男組」時代からサポート的に参加していた前田が正式メンバーとして迎え入れられた 。当初はドラム担当としての加入だったが、間もなくキーボード担当へと変更された 。これにより、成田昭次(ボーカル・ギター)、高橋和也(ボーカル・ベース)、岡本健一(ボーカル・ギター)、そして前田耕陽(ボーカル・キーボード)という、ファンに最も知られる4人体制が確立した 。
役割と楽器
グループ内での前田の役割は、主にキーボードとボーカルであった 。また、2代目のリーダーも務めたが、これはジャンケンで負けたために半ば強制的に決まったというエピソードがある 。
音楽面では、入所・加入当初は楽器経験がほとんどなく、小学校時代にピアノを習ったことがある程度だった 。そのため、男闘呼組結成初期にはシンセドラム(パーカッション)を担当していた時期もある 。主演映画『ロックよ、静かに流れよ』(1988年公開)では役柄としてドラムを担当したが、本人は後年、「(結成当時は)他のメンバーと違って楽器を触ったこともなかったので、設定上はなんでもよかった」と語っている 。しかし、これは初期の話であり、男闘呼組の後期にはキーボードを「ちゃんと自分で演奏していた」と明言している 。近年ではアコースティックギターを演奏する姿も見られる 。
当初は楽器経験が少なかった前田が、最終的にグループに不可欠なキーボーディストとして定着した事実は、彼の適応能力と努力を示している。成田昭次や高橋和也のように当初から明確な音楽的役割(ギター/ボーカル、ベース/ボーカル)があったメンバーとは異なり、前田はグループのニーズに合わせて自身のポジションを確立していったと言える。リーダー就任の経緯も含め、自ら積極的に役割を切り開くというよりは、与えられた場所で責任を果たし、スキルを磨いていった彼の姿勢がうかがえる。この「サポート役」でありながらも中心的な存在であるという独特の立ち位置が、グループ内のバランスを保つ上で重要な役割を果たしていた可能性もある。
デビューと人気
1988年8月24日、男闘呼組はシングル「DAYBREAK」でレコードデビューを果たす 。当時のアイドルシーンにおいて、楽器を演奏し、激しいロックサウンドを前面に出す「踊らないロックバンド」というスタイルは異彩を放ち、大きな注目を集めた 。デビュー曲「DAYBREAK」はいきなり大ヒットを記録。同年末には第30回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場(田原俊彦の出場辞退による繰り上げ当選ではあったが)するなど、瞬く間にトップアイドルの仲間入りを果たした 。
音楽活動と並行して、メンバー全員が出演した映画『ロックよ、静かに流れよ』(1988年・東宝)も公開された。この作品は、単なるアイドル映画の枠を超えて批評家からも高い評価を受け、毎日映画コンクールやヨコハマ映画祭で新人賞を受賞するなど、彼らの人気と実力を示す象徴的な作品となった 。特に、成田昭次が演じたツッパリグループのリーダー的存在の役柄は人気を博した 。
音楽性の変化と活動休止
デビュー当初は提供された楽曲を中心に活動していた男闘呼組だが、キャリアを重ねるにつれてメンバー自身の音楽性が色濃く反映されるようになる。特に1991年リリースのシングル「ANGEL」以降は、メンバーによる自作曲が中心となっていった 。これは、彼らが単なるアイドルではなく、アーティストとして成長し、自らの音楽を追求しようとしていたことの表れである。この時期には、成田昭次や高橋和也だけでなく、前田を含むメンバー全員が楽曲制作に関与していたと考えられる。
人気絶頂の中、1993年、男闘呼組は突然の活動休止を発表する 。活動期間は約5年という短いものであった。活動休止後、高橋和也、成田昭次、そして前田耕陽はジャニーズ事務所を退所した 。活動休止の明確な理由は公式には語られていない部分も多いが、メンバー間の音楽的な方向性の違いや、事務所との関係性などが背景にあったとされている。この突然の休止は多くのファンに衝撃を与え、伝説的なバンドとして語り継がれる一因ともなった。
ソロ・俳優・舞台活動期
音楽活動の継続
男闘呼組の活動休止後も、前田は音楽への情熱を失うことはなかった。自身のバンド「前田耕陽BAND」や「GODDESS」を結成し、ライブハウスを中心に音楽活動を継続 。また、特筆すべきは、元メンバーである高橋和也との音楽的な繋がりが続いていたことである。二人は「MIDNIGHT ANGEL」というバンドを結成し、活動を共にしていた 。さらに、2020年には自身のYouTubeチャンネル「Team54.ch」を開設し、「Team54 Radio」と題した配信を開始するとともに、男闘呼組時代の楽曲のセルフカバーを発表。一部の楽曲では高橋和也がゲスト参加するなど、再結成への布石ともとれる動きを見せていた 。
俳優としてのキャリア
男闘呼組解散後、前田は俳優としての活動を本格化させる 。映画、テレビドラマ、そしてVシネマと、幅広い分野で活躍。特にVシネマには多数出演し、哀川翔とのダブル主演作『勝手にしやがれ!!』シリーズ(1995-1996年)などで存在感を示した 。テレビドラマでは、NHK連続テレビ小説『すずらん』(1999年)の日高正憲役や 、人気シリーズ『京都祇園入り婿刑事事件簿』(1999-2005年)の桐野耕平刑事役 など、記憶に残る役柄も演じている。
大阪移住と舞台活動への傾倒
2006年、漫才師の海原ともことの結婚を機に、生活の拠点を大阪へ移したことは、前田のキャリアにおける大きな転機となった 。これを境に、活動の中心は徐々に舞台へとシフトしていく 。大阪での仕事量が東京時代ほどではなかったことをきっかけに、「だったら自分発信でやろうかな」と考え、自ら舞台をプロデュースする道を選んだと本人は語っている 。
2010年頃からは、自身が主宰する「TEAM54」名義で、脚本、演出(または共同演出)、音楽、そして出演までこなすプロデュース公演を精力的に行うようになる 。『3×3=3』シリーズや『のらん』、『パパがヒーロー?』、ET-KINGのコシバKENを客演に迎えた『Wall』 など、コメディタッチの作品を中心に、ほぼ年1本のペースで新作を発表し続けた 。
この大阪での舞台活動は、単に活動の場を変えただけでなく、前田が自身のクリエイティビティを発揮し、制作面での主導権を握るという点で重要な意味を持っていた。東京中心の芸能界から離れたことで生まれた時間や状況を、彼は新たな挑戦への機会へと転換させたのである。男闘呼組時代の「与えられた役割をこなす」姿勢から一歩進み、自ら企画し、作品を生み出すという経験は、彼の表現者としての幅を大きく広げたと言えるだろう。この時期に培われた脚本執筆や舞台制作のノウハウは、後のRockon Social Clubでの活動にも活かされている 。
近年の活動とRockon Social Club
男闘呼組、奇跡の再始動
2022年7月16日、多くのファンが待ち望んだ瞬間が訪れた。TBS系の音楽特番『音楽の日』において、男闘呼組が29年ぶりにオリジナルメンバー4人(成田昭次、高橋和也、岡本健一、前田耕陽)で復活。1年間の期間限定での活動再開を発表した 。この再結成は、高橋和也が長年連絡を取ることが難しかった成田昭次とコンタクトを取り、再会を果たしたことが大きなきっかけとなった 。
再始動後、男闘呼組は精力的に活動を展開。全国ツアー『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE』では、かつて活動休止により中止となった会場を含む全国各地を巡り、ファンとの再会を果たした 。2022年末には、第64回日本レコード大賞で「特別賞」を受賞 。そして、デビュー35周年を迎えた2023年8月、日本武道館での『LAST FOREVER』公演などを経て、多くのファンに惜しまれながらその活動に幕を下ろし、正式に解散した 。
Rockon Social Club の結成と活動
男闘呼組の期間限定活動が終了することを見据え、彼らの音楽の旅を未来へと繋ぐ新たなプロジェクトが水面下で進行していた。それが、新バンド「Rockon Social Club」(ロックオン・ソーシャル・クラブ、略称:RSC)である 。メンバーは男闘呼組の4人に加え、プロデューサーとして寺岡呼人(元JUN SKY WALKER(S))、ドラマーとして青山英樹を迎えた6人編成 。
Rockon Social Club は、2023年1月に正式に始動を発表 。同年3月1日には1stアルバム『1988』をリリースした 。このタイトルは、男闘呼組のデビュー年を冠したものであり、彼らのルーツへの敬意と、新たな出発への決意を示すものだった。その後も、男闘呼組の楽曲をセルフカバーしたアルバム『2023』 や、オリジナルアルバム『Don’t Worry Baby』 、ミニアルバム『SUMMER OF LOVE』 などを次々と発表。全国ツアーの開催 、音楽フェスティバルへの出演(RISING SUN ROCK FESTIVAL 2023 in EZOなど) 、テレビの音楽番組への出演(『SONGS』、『CDTV ライブ!ライブ!』、『THE MUSIC DAY』など) 、ラジオ番組の展開 など、極めて精力的な活動を続けている。
男闘呼組の再結成が「期間限定」であったのに対し、Rockon Social Club はその活動の継続を前提として結成された。これは、単なる同窓会的な再結成ではなく、男闘呼組という伝説を受け継ぎながらも、新たな音楽性を追求していくというメンバーたちの強い意志の表れである。寺岡呼人という経験豊富なプロデューサーと、若手実力派ドラマー青山英樹(父は男闘呼組のレコーディングにも参加した名ドラマー青山純 )の加入は、バンドに新たな化学反応をもたらし、男闘呼組とは異なるサウンドスケープを創り出している 。RSCは、過去の栄光に安住することなく、現在進行形で進化し続けるバンドとして、前田耕陽、そして成田昭次らメンバーの音楽キャリアの新たな章を刻んでいる。
Rockon Social Club においても、前田はキーボードとボーカルを担当し、バンドサウンドに彩りを加えている 。男闘呼組時代の楽曲「REIKO」など、彼がリードボーカルを務めるナンバーもライブで披露されている 。また、音楽活動に留まらず、Rockon Social Club の公式アプリ内で配信されたメンバー総出演のドラマ『Reseed〜成田商事倒産の危機〜』では脚本を担当するなど、舞台活動で培ったライティング能力も発揮している 。ラジオ番組『KURE 5-56 Presents ROCKON TIMES』などにもメンバーと共に出演し、バンドの魅力を伝えている 。
人物
音楽性
前田耕陽の音楽キャリアは、キーボーディストとしての活動が中心である 。男闘呼組加入当初は楽器経験が乏しかったものの 、グループ活動を通じてスキルを磨き、後期には自身で演奏をこなすようになった 。初期にはシンセドラムやパーカッションを担当した時期もあり 、映画『ロックよ、静かに流れよ』ではドラムを演奏する役柄を務めた経験も持つ 。近年ではアコースティックギターも演奏するなど、マルチな楽器への関心も示している 。
楽曲制作への関与については、男闘呼組の後期にはメンバーによる自作曲が増え、グループとしての制作プロセスに関わっていたと考えられる 。ソロ活動や自身のバンド活動においても楽曲制作を行っていた 。特に、大阪での舞台活動においては、脚本だけでなく音楽も自身で手掛けることが多く 、クリエイターとしての一面を強く見せている。Rockon Social Clubでは、メンバーの一員として楽曲制作やアレンジにも参加しており 、バンドのサウンド構築に貢献している。
人柄とエピソード
周囲からは「柔らかいオーラを持つ癒し系」、「気さくで優しい」 と評されることが多い。一方で、占い番組では「ピュアで気持ちが顔や態度に出やすく、嘘がつけない」「何事にも全力で一生懸命だが、計画性に欠け、詰めが甘い」と分析され、隣にいた高橋和也が思わず爆笑したというエピソードもある 。この「詰めが甘い」という指摘には、本人も自覚があるのかもしれない。
趣味は読書と飲酒 。酒好きが高じて過食傾向があり、過去には肥満に悩まされた時期もあったという 。大阪に移住してからはパチスロにもハマり、関連番組に出演したこともある 。熱狂的な埼玉西武ライオンズファンとしても知られる 。また、車好きが高じて、ジャニーズ事務所在籍時にはカーレーサーを目指し、実際にライセンスまで取得したが、先輩である近藤真彦から「お前までレーサーなんてとんでもない!」と止められたという過去も持つ 。
身体能力にも特筆すべき点があり、男闘呼組のメンバーの中では唯一、ステージ上でバック宙をこなすことができた 。
私生活では、1998年に元アイドルの中村由真と結婚したが、数年間の親友関係を経てのゴールインだったものの、結婚生活は長く続かず、2003年に離婚 。その後、2006年8月に漫才コンビ「海原やすよ ともこ」の海原ともこと再婚。これを機に大阪へ移住した 。ともことの間には一女一男をもうけている 。妻であるともこがしっかり者であるためか、先輩である川﨑麻世との食事の席で「かみさんが厳しい」という理由で早めに帰宅したという微笑ましいエピソードも伝えられている 。
交友関係
男闘呼組 / Rockon Social Club メンバー
男闘呼組のメンバーとは、活動休止期間中も繋がりを持ち続けていた。特に高橋和也とは、「MIDNIGHT ANGEL」というバンドでの活動 や、前田自身のYouTubeチャンネルでの共演 、プライベートでの交流 など、継続的な関係があったことがうかがえる。
成田昭次とは、男闘呼組の活動休止後、長らく連絡が取りにくい時期があったが、高橋和也らの尽力により再会が実現し、これが男闘呼組再始動の大きな原動力となった 。岡本健一とも、再始動、そしてRockon Social Clubでの活動を通じて、再び深い絆で結ばれている 。Rockon Social Clubの結成と精力的な活動は、メンバー間の揺るぎない信頼関係と、共に音楽を続けたいという強い思いの表れと言えるだろう 。Rockon Social Clubのプロデューサーである寺岡呼人に対しても、メンバーは「頼れる兄貴」として全幅の信頼を寄せている様子がインタビューなどから伝わってくる 。
その他
ジャニーズ事務所の先輩である川﨑麻世とは、近年になって初めて一緒に食事をする機会があったという 。鹿児島県で活動するMBCタレントの野口たくおは、いとこにあたる 。Vシネマ『勝手にしやがれ!!』シリーズでダブル主演を務めた哀川翔とも共演歴がある 。
主な出演作品
テレビドラマ
男闘呼組時代から現在に至るまで、数多くのテレビドラマに出演している。