岡本健一、子どものころの家と父の工場、街での冒険から初舞台までを語る Depth EDITION 15「岡本健一という人格の形成。この世に生まれた意味と責任。」

雑誌『Depth』EDITION 15(2026年10月)は、岡本健一さんのインタビューの連載の【第一章】として、「岡本健一という人格の形成」に焦点を当てています。前号の【序章】で音楽とのつながりを語った岡本さんが、子どものころの家族と家、父の塗装工場とアパートの人たち、映画館やディスコでの冒険、そして初舞台の『唐版 滝の白糸』までを振り返り、これからの思いを語っています。

記事は、Rockon Social Club(成田昭次・高橋和也・岡本健一・前田耕陽・寺岡呼人・青山英樹)が、2026年11月6日に男闘呼組のセルフカバーアルバム第2弾『WARRIORS -男闘呼組 SELF COVERS- Rockon Social Club』をリリースする前に、9月3日・4日の東京・Zepp Haneda 公演から始まった全国ツアー『KURE 5-56 Presents Rockon Social Club Tour 2026 WARRIORS』の最中にあることから始まる。今号は、誰とでもフラットに接し、誰よりもストイックに自らと向き合う岡本健一という人間が、どのような背景で形成されたかを探っている。

岡本は「女兄妹の中で育ったんですよ。姉と妹。4つ上と4つ下」と話し始める。家には父方の祖父母と父の姉の家族も一緒に暮らし、1階に岡本の家族、2階に父の姉の家族、その上に祖父母が住んでいた。父の姉の家族の3人の子も女の子で、歳の近い子どもの中で男は岡本1人だった。家には『りぼん』『なかよし』『マーガレット』が常に置いてあり、当たり前に読んでいた。女性に対して壁がないのは、こうした環境のためかもしれないといい、前号でも今号でも、撮影で咄嗟に網タイツを取り入れたのも、その影響かもしれないと話す。クラスの男子の間で流行ったSFアニメやプラモデルには興味が向かなかった。一方で、父には「お前は男の子なんだから、お前がちゃんとしろよ!」と言われ続け、不服に思っていたことを覚えているという。

祖父母はいつも着物を着ており、キセルで煙草を吸う厳格な祖父が、火鉢の角にキセルを当てて灰を落とす姿を、岡本ははっきりと覚えている。父は「一家の大黒柱」のような人で、小さな塗装工場を営み、敷地の中の工場と、そこで働く人たちも住むアパートを経営していた。家の中は女社会だったが、工場は男社会で、塗料とシンナーの匂いと熱気の中、皆が流れ作業で一緒に働く感じが不思議で好きだった。家は新宿のほうにあり、夜になると、父は塗装した部品をトラックに積んで埼玉の川口まで届けに行った。父はいつも幼い岡本を隣に乗せ、帰ると一緒に寝た。片道1時間ほどの車の中で流れていたのはジャズと落語で、「柳家小三治さんかArt Blakeyか、みたいな(笑)。よく『Take Five』が流れてたなぁ」と岡本は振り返る。目線の高いトラックから周りの車を見て、車の名前を言うのが好きだった。4歳のころの記憶で、車が好きになったのは、この記憶が大きく影響しているのかもしれないという。

工場で働く海外からの留学生や体の不自由な従業員、アパートの住人とも仲が良く、皆に家族のように可愛がられた。片手のない人に抱っこや肩車をしてもらったことも覚えている。それが自然な景色だったので、「いまだにどんな人であろうと構えることはないし、驚きがない。同じ人間というところで向き合う以外の感覚がない」と岡本は話す。洋楽を聴くようになったのは中学生からだが、最初にいろいろな洋楽を聴かせてくれたのは、アパートに住んでいた大学生のお姉さんだった。お姉さんがよく聴いていたのは Eagles や Linda Ronstadt などのカリフォルニアサウンドや Billy Joel で、もらったテープを中学生のころに聴き直して、そのアーティストだったと知った。お姉さんに氷川神社のお祭りに連れて行ってもらった雨の日には、「健ちゃん、いい? 傘はね、男の子が持つものなのよ」と教えられ、背の高いお姉さんに届かない背丈で、必死に背伸びして傘を差して帰った。アパートは、岡本が小学4年生のころ、建て替えのために取り壊された。

「今思うとさ、あの頃はなんか豊かだったなぁって思うよ」と岡本は語る。お金の面だけでなく、人と人が接する人情の面で、皆が同じものを見聞きして共有し、気持ちがつながっていた気がするという。家族でテレビを観る時間や、縁側に集まってスイカを食べるような、気持ちの上で豊かに感じる時間は、すごく必要だと話す。家具のような大きなレコードプレイヤーのある応接間のように、昔はどこの家にも人が集まる場所があったとも振り返る。父は定期的に車を買い替え、新車が来る日が楽しみだった。小学校に入ってからは8時か9時に寝かされたが、テレビで映画を放送する日だけは11時ごろまで起きていてよく、父のベッドに入って一緒に遅くまで起きていた。近くの花園神社には見世物小屋があり、夜に馬小屋のある校舎に忍び込んで、寝ている馬をそっと見るのも好きだった。

小学生のころは、学校が終わると自転車で歌舞伎町や池袋の映画館へ毎日のように通い、洋画のチラシを集めた。映画館の人たちに可愛がられ、いろいろな街や場所を覚え、地区によって匂いや住む人が違うことに気付いた。ある日、繁華街で、きれいな着物のお姉さんに手招きされて近寄ると声が男性で、そのとき初めてマイノリティの人たちの存在を知り、その生き方も魅力的に映ったという。

中学では、友達が塾に通い始める中、父は学校の勉強さえきちんとしていれば高校に入れるので塾には行かせないという考えで、岡本は放課後を「未知の世界を知る為の冒険タイム」にあてた。歌舞伎町には中学生や高校生も入れるディスコがあり、ソフトドリンクで通ううちに、店の人と顔見知りになった。不良がパンチパーマをかけていた時代で、岡本は、自分と友達になるならパンチパーマは禁止という条件を作り、仲間とディスコに通った。かかっていたのは Earth, Wind & Fire や Madonna などのディスコサウンドで、チークタイムには Spandau Ballet のバラードがかかり、歳上のお姉さんに誘われて踊ったこともある。ディスコに似合う自分になりたくて、サーファーに憧れ、ダイバーズウォッチを着けて日焼けサロンに通う「丘サーファー」にもなった。音楽よりも、皆で楽しく踊るその場の雰囲気が好きで、「あの頃は、とにかく好奇心しかなかった」という。夜中に家を抜け出し、家族が起きる前に戻る毎日だったが、家の決まりは「人に迷惑だけはかけたら絶対ダメ」ということだけで、あとは好きなことをしろという放任主義だった。

高校に入ったらディスコでアルバイトをしてお金を稼ごうと思っていた岡本に、男闘呼組のデビューへとつながる出逢いが訪れる。オーディションがあった時代ではなく、入所の日は本人にも分からないが、今回の話から割り出すと1984年8月とみてよさそうだと、記事は書いている。そこで男闘呼組のメンバーと出逢い、数年後の1989年に『唐版 滝の白糸』(1989年3月5日〜3月28日、日生劇場、蜷川幸雄演出。少年アリダ役)で初舞台を踏んだことをきっかけに、演劇の世界にのめり込んでいった。唐十郎が泉鏡花の小説『義血侠血』から着想を得て書き下ろし、蜷川幸雄が演出した作品で、日生劇場でこの戯曲を舞台にできたことを、蜷川は楽屋で「快挙だ」と称えた。当時の岡本にはその意味が分からなかったが、のちに、その言葉に込められた芝居への情熱と、戯曲の意味の深さに感銘を受け、演劇こそが自分の居場所だと確信したという。

岡本は「初舞台が唐さん、蜷川さんの舞台でなければ、自分の人生の方向性も変わっていたと思うし、ここまで芝居にのめり込んではいなかったかもしれないって思うよ」と語り、子どものころからの経験や見てきた景色が、全部今につながっていると話す。唐や蜷川に、もっと直接聞いておけばよかったと思うので、これからは、聞けなくなったり見られなくなったりする前に、後悔しないように触れていきたいという。ソノシートや VHS、ベータのように、なくなったものも多く、時代の移り変わりを見てきた世代として、その変化を感じている。もともとデジタル人間ではなく、世間の情報や流行りにも興味が向かない。ここ何年も、家から稽古場に行き、舞台をやり、家で台詞を覚え、ときどきスタジオに入って音楽を作り、ライヴをする繰り返しだという。それでも、好きなものを探究する貪欲さは変わらず、「俺は今でも“冒険王”だよ(笑)」と笑う。そして、「“逃げ切り世代”と言われている世代だけど、逃げ切ろうなんて思ってないからさ」と言い、「自分がやれること、やるべきことの責任は果たしていきたいなと思う。自分の追求する世界において、できる限りのことは、伝えていきたいと思うよ。それが自分が生まれて、自分が生きた意味になるんだと思うからね」と結んでいる。

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